髙橋史朗 6 – 「地獄への道は『善意』で敷き詰められている」
髙橋史朗
モラロジー研究所教授
麗澤大学大学院特任教授
●「体罰」なのか、「正当防衛」なのか
前回論じた体罰問題について、都内の現職中学校教師から切実な声が寄せられた。その教師によれば、悪質ないじめ行為をした生徒を殴ったために懲戒処分となり、再雇用を拒否されたという。「子供と親が納得していれば、体罰には該当しない」という従来の解釈が180度転換し、全ての有形力の行使は体罰と見なされるようになったために、情熱のある教師たちが「見ざる言わざる聞かざる」の事なかれ主義になりつつあるという。
東京都教育委員会が全児童に実施するアンケート調査に書かれた「教師から受けた体罰」があれば、校長面接が行われ、処分の対象となるため、教師が少しでも強く指導すると、「体罰だ」と子供たちが抗議する風潮が蔓延し、保護者が学校やマスコミに通報するケースが増えた。生徒にネクタイをつかまれて「殴ってみろよ、処分だよな」と挑発される教師も少なくない。こうした風潮が家庭の親子関係に広がれば、家庭教育は崩壊せざるをえない。
私自身も埼玉県教育委員長時代に教員出身の県会議員から体罰問題に関する私の「本音」を聴きたいという「再質問」が行われことがある。ある教師が夜間に校内を巡回した時に
居残っていた生徒を注意したところ、教師のポケットに手を入れて鍵を取ろうとしたので、手で振り払ったところ、壁にぶつかり親に「体罰を受けた」と通報し、親が警察に通報したために、教師は逮捕されて連行され、翌日の朝刊に大きく報じられた。
その記事を見た市民の一人が私への電話で、「教師の言い分を聞いてほしい」と要望されたので、弁護士にも面会した。有形力の行使により生徒が「不快感」を感じたとしても、これは明らかに「正当防衛」であった。
●「其悪を正し、不義を正す」ことが「叱ること」
ヨーロッパの格言の「地獄への道は善意で敷き詰められている(The road to hell is paved with good intentions)」を引用した政府の「次代を担う青少年について考える有識者会議」報告書(平成10年)は、「3 今、何をすべきか」の「基本的認識」において、次のように指摘している。
<“地獄への道は「善意」で敷き詰められている”
子どもたちの間違いを「教育的配慮」という優しさから、あいまいに処理することにより、問題を放置し、取り返しのつかないレベルまで増幅させていることはないだろうか。“まあまあ”で済ませてしまうのは、その時は楽である。子どものことを思い、“悪いことは悪い”ということをはっきりさせ、真剣に「叱り」、厳しく「罰し」、子どもに「課題を突きつける」態度が、大人に、さらに社会に求められる。また、子どもにも、悪いことは悪いこと自覚させるため、法律によって厳しく処分することも視野に入れる必要があろう>
子供の権利を重視した賀川豊彦が「叱られる権利」を強調したことはあまり知られていない。平和学園・アレセイア湘南高校の武部公也校長は、次のように指摘している。
「私は卒業証書授与式の式辞の中で、創立者である賀川豊彦先生が取り上げた子どもの権利について話をさせていただきました。私は賀川先生が主張された子どもの権利の中で、「叱られる権利」に注目している。叱られる権利を『教育や躾を受ける権利』と読み替えたらどうでしょう。現代は『叱らない』時代だと言われています。しかし、学校や家庭で、親や教師がいかに本気で子どもたちと向き合うかどうかが大切なのです。なぜなら、子どもたちは本気で叱ってもらう権利を有しているから……」
賀川は「叱る」と「怒る」を明確に区別し、「感情が制しきれずに爆発する」のが「怒る」で、その先に親の身勝手な暴力(虐待)があると強く非難し、「子供のためを思ひ、之を愛して立派なものに仕上げんとするが故に、自分は少しも怒ってはいないが、子供のために、其悪を正し、不義を正す」のが「叱ること」で、保護者にも叱る権利があると主張している。
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