八木秀次 – 児童虐待から子供を救うには
法と道徳⑤
八木秀次
麗澤大学教授
●必要なことは子供のための環境改善
児童虐待が深刻化する中で、子供に対する大人社会の目線を「保護の対象」から「権利を持つ主体」に切り替える必要があるとする主張がある。たまたま目にしたのは、かなり見識の高い方の意見で、善意によるもののようだった。子供は大人から保護される対象ではなく、自らが権利を持つ主体であると考えるべきという。
児童虐待の実態は痛ましい。実の親や、特に顕著なのは、母親の新しい夫や同居の男から日常的に暴力を振るわれたり、食事を与えられなかったり、ネグレクト(育児放棄)されるケースだ。原因は単純に家庭環境。愛情ではなく、性欲の捌け口とした結果、妊娠する。それで仕方なく結婚する。いわゆる「できちゃった結婚」だ。子供は生まれるが、親としての自覚はない。私自身、子供を育てた経験から思うが、男は直ぐには父親になれない。自覚は時間とともに育つ。子供が父親にしてくれる。自覚がないまま父親になった場合、子供は邪魔な存在でしかない。また、「できちゃった結婚」の場合、直ぐに離婚するケースが多い。もともと愛情で結ばれた関係ではないからだ。やがて母親は新しい男性との関係を築く。子供と男性とは「なさぬ仲」だ。これまた、自分の経験を振り返って思うが、自分の血を分けた子供には愛情を注げるが、他人の子供となると難しい。まして「なさぬ仲」の妻の連れ子は、別の男性の遺伝子を持つ存在だ。動物としてのオスの本能として排除の対象となる。連れ子が懐かなければ、気持ちは憎悪にも変わる。さらには実の母親までが新しい夫の方に気持ちが傾き、子供への暴力に同調する。痛ましい限りだ。
このような環境にある子供たちを救い出さなければならないとは誰もが思う。そこで子供を「権利を持つ主体」にする必要があるという主張になるようなのだが、話に飛躍がある。まずは児童虐待がどんな環境で行われているのかについての把握が必要であり、その環境改善が必要となる。劣悪な家庭環境から子供たちを引き離すなどの救出システムの強化が必要であり、親としての自覚が育たないままに結婚し子供を産む「できちゃった結婚」を減らすことも肝要だ。さらには学校教育段階で結婚や親になることの意義についてしっかり学ぶようにすることも必要だ。
●子供を荒野に放り出すようなもの
子供を「保護の対象」から「権利を持つ主体」に切り替えるという発想は、かつて学校や家庭に混乱をもたらした「子どもの権利」の考え方でもある。1989年に国連総会で採択された「児童の権利に関する条約」を日本でも批准するに当たり、18歳未満の「子ども」を大人から保護される客体から権利行使の主体に転換すべきとの主張が、教職員組合などから強力になされた。一部の自治体が「子どもの権利条例」を制定する動きもあった。そこでいう権利行使の主体とは大人と同じ市民的権利の行使主体になるということだった。要するに子供を大人と同じ存在として扱えということであり、その際、持ち出されたのが「自己決定権」という考え方だった。そして、その考え方が前提にしたのが、J・S・ミルが『自由論』で述べた「他者加害原理」だった。他人に迷惑を掛けなければ何をしてもよい――。この考えが子供にも認められるというのが「子どもの権利」の発想だった。
ミルが「他者加害原理」の主体から未成年者を除いていることについてはこれまでにも言及してきたが、「子どもの権利」の発想では、「つまらない授業を拒否する権利」だの「オートバイに乗る権利」だの「日の丸・君が代を拒否する権利」だの「セックスするしないを自分で決める権利」だのということが主張された。現在はすっかり収まったが、1990年代はそんな主張が吹き荒れていた。そしてその犠牲になったのが、当の子供たちだった。「自己決定」は「自己責任」を伴い、自分で決定したことの結果については自分で責任を負うことを意味したからだ。「子どもの権利条例」を制定した自治体では、プライバシー権を規定し、親が子供の交友関係を把握することも困難になった。親の目の届かないところで身の危険にさらされるケースもあった。
児童虐待から子供を救うためには、子供を大人と同じ権利行使の主体として扱ってはならない。それは子供を荒野に放り出すようなものだからだ。子供の利益にならない。それよりも、親はもちろん、他の大人からもしっかり「保護」される対象として位置づけられるべきであり、そのためのシステムづくりが必要だ。
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