言論人コーナー

髙橋史朗 – 「不動の真理」を置き去りにしてはならない

髙橋史朗

モラロジー研究所教授

麗澤大学大学院特任教授

 

 

●「子育て革命」によって危ぶまれるもの

「子供の最善の利益」の名の下に、静かな「子育て革命」が厚生労働省のイニシアティブで進められている。背景には、相次ぐ児童虐待死事件やスポーツ界の体罰問題などがある。
 昨年6月に成立した改正児童虐待防止法の4月施行を受けて、厚労省は昨年12月3日、体罰に関する指針案を公表した。パブリックコメントの形で広く国民の意見を集約したうえで、3月末までに決定する予定である。
 この指針案には、「身体に何らかの苦痛又は不快感を引き起こす行為(罰)は、どんな軽いものでも体罰に該当し、法律で禁止する」と明記されている。
 これは厚労省の「体罰等によらない子育ての推進に関する検討会」(大日向雅美座長)がまとめた報告書『体罰によらない子育ての推進について』に基づいており、「たとえしつけのためだと親が思っても」という文章に続く文章の引用文である。
 しかし、「体罰」と自立心や忍耐力を育む「躾」を混同してはならない。「体罰」の名の下に、「躾」や子供の最善の利益のための「監護や教育」自体を否定するような誤解が広がれば、教育荒廃に拍車をかけることは明白である。
 教育基本法第10条は、「生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成」する第一義的責任は、「父母その他の保護者」にあると明記している。
 社会的に自立するためには、基本的生活習慣や自立心を育成し、社会を支えているルール感覚や秩序感覚を育む必要があり、そのためには、たとえ子供に不快感を引き起こしても、親や保護者による躾や指導が必要不可欠である。
 会津藩の子弟教育における「什の掟」のように、「ならぬことはならぬものです」という子育ての「不動の真理」(櫻井よしこ「しつけと体罰を混同してはならない」『週刊新潮』1月2・9日号)の伝統を否定する「子育て革命」は、「日本を取り戻す」教育再生に逆行する暴挙といっても過言ではない。

 

●「ならぬものはならぬ」――「他の国でも共通した考え方」

 そもそも「教」という漢字は、父(斧を持つ手の象形文字)と子が交わることを意味し、「ならぬことはならぬものです」という父性原理で子供と関わることを意味している。「教育」は厳しさの父性原理と優しさの母性原理のバランスによって成立する。
「しっかり抱いて、下に降ろして、歩かせる」という子育ての伝統は、愛着という母性原理と他律という父性原理によって「自立」するという子供の発達段階に応じた子育ての「不動の真理」を見事に表現している。子供の発達を保障し支援するためには、この「不動の真理」を放棄してはならない。これを否定する「子育て革命」は、「子供の最善の利益」を侵害する。
 厚労省が3年前に作成した『愛の鞭ゼロ作戦』には、「子どもの言い分を気長に聴きましょう。『わがままな子になっては困る』という想いから、親は指示的に対応してしまうこともありますが、…」などと書かれているが、親の「指示」自体を否定することは、教育の根幹を揺るがしかねない。体罰は排除しなければならないが、羹に懲りて膾を吹く過ちは本末転倒でバランスを欠いている。
 体罰に関する唯一の最高裁判決(平成21年4月28日)は、女子児童や教員を蹴った男児の胸元をつかんで壁に押し当て、大声で叱った教員の行為は、「教育的指導の範囲を逸脱せず、体罰には当たらない」と判示した。
 イギリスの言い伝えに「大人は子供から目を離すべきではないが、子供の言うことを聞き入れる必要はない」という「他の国でも共通した考え方」(市川昭午)があるという。
 政府の「次代を担う青少年について考える有識者会議」(平成10年)の報告書も「“地獄への道は『善意』で敷き詰められている””悪いことは悪い”ということをはっきりさせ、真剣に『叱り』、厳しく『罰し』、子どもに『課題を突きつける態度』が、大人に、さらに社会に求められる」と明記している。

 

 

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