八木秀次 – 売春が禁止される理由
法と道徳④
八木秀次
麗澤大学教授
●当事者が合意していても許されない結婚がある
J・S・ミルが『自由論』(1859年)で展開した「他者加害原理」を援用して、いわゆる「援助交際」(女子中高校生の売春)を正当化する論理を一部の社会学者や教育学者が提供していたことについてはこれまでに述べた。
ミルは「他者加害原理」すなわち「他人に迷惑を掛けなければ何をしてもよい」という論理は未成年者には当てはまらないと注意していた。未成年者は他人から受ける害よりも、自らの未熟な判断力のために自らに害を招くことが多いというのがその理由だった。社会学者や教育学者はその部分を意図的に無視してミルの主張を紹介していた。
しかし、そうであるなら、判断力のある成人はどうか。当事者が合意し、その中で完結すれば、何でも許されるのか。
そうではない。例えば、民法は、親子間、兄弟姉妹間という近親婚はもとより、かつて義理の親子関係にあった元・舅と元・嫁との関係、元・姑と元・婿との関係、元・養親と元・養子との関係での結婚を禁止している。理由には家族道徳や家族秩序を持ち出さざるを得ない。もっと言えば、当事者が合意したとしても、その間柄での性行為は「気持ち悪い」という感覚が背景にあると考えられる。
●売春防止法――女性の尊厳を害することをよしとせず
成人による売春はどうだろうか。売春をしたい成人女性と買春をしたい成人男性との間で合意したとしたらどうなのか。お金を得たい女性と性欲を満たしたい男性との間でお互いに利益があるとも考えられる。他人に迷惑を掛けていないから、ミルの「他者加害原理」では正当化されなければならない。しかし、売春は「売春防止法」で禁止されている。
売春防止法は「売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすものであることにかんがみ」(1条)と、性道徳や善良な風俗を維持することを立法目的としているとする。そこで言う性道徳や善良の風俗とはどういうことか。
売春は「世界で二番目に古い職業」とも言われる(世界で二番目に古い職業を何にするかには諸説ある)。昔からあるということだ。しかし、人類はその歴史の中で、女性を男性の性欲の捌け口として、その尊厳を害してきたのも否定できない事実である。暴力団や悪徳業者によって女性が奴隷状態にされ、売春を強要されてきたこともある。それゆえ売春防止法は売春をする女性自体を処罰するのではなく、女性に売春をさせた業者を「管理売春」として処罰することにしている。
売春防止法は、戦後もしばらく経っての昭和33年4月1日に施行された。それ以前、売春は合法だった。戦地における「慰安婦」もその業者も当時は合法的な存在だった。当時の価値観はそうだった。
売春防止法でいう性道徳や善良な風俗とは、そのような女性の人としての尊厳を害することをよしとしないとする趣旨だ。
さらには、民法でも一夫一婦制が規定される中で、結婚している者の性行為は夫婦間に限定されなければならない。配偶者以外の者との性行為は不貞行為として離婚裁判の際の離婚理由となる。民法は直接の規定ではないが、不貞行為を禁止している。その意味で売春は男性の配偶者である妻に精神的苦痛を与えないためにも禁止されている。
売春ではないが、配偶者以外との交際である「不倫」もそのような趣旨で文字通り「道徳的でない行為」とされ、社会的地位のある者はその地位を奪われるまで指弾されるようになっている。
●数多くの命を受け継ぎ、数多くの命のもとになるもの
売春が禁じられるのは売春の当事者である女性自身を守るためでもある。売春の対価は普通の労働よりも高価であるのが普通だ。売春が常態化すれば、健全な勤労意欲を失わせる。善良な風俗にはそのような意味もある。
さらには女性自身の尊厳を守るためでもある。ここで考えなければならないのは、「自分」とはどのような存在であるかということだ。
ミルの「他者加害原理」には自分の身体は自分の所有物であるという考えが前提にある。自分の所有物をどのように処分するのかは「個人の自由」という考えだ。自殺を正当化する論理でもある。しかし、果たして「自分」という存在は自分の所有物であり、処分できるものなのか。
孔子の教えを記した『孝経』(開宗明義章第一)に「身体髪膚、之を父母に受く。敢て毀傷せざるは、孝の始めなり」という、よく知られた一節がある。自分の身体は父母から受け継いだものであるという意味だ。もっと言えば、その前の無数の祖先から受け継いだものでもある。さらには次には自分から子や孫に伝えられていくものであるということだ。
つまりは「祖先―私―子孫」という「生命の連続性」の中に位置付けられたのが現在の「私」であり、「私」はその受け継がれる生命の連続性の中の中間地点にいるに過ぎないということでもある。数多くの命を受け継ぎ、数多くの命のもとになるのが「私」という存在ということだ。
そのように考えれば、「私」は自分の所有物ではない。「生命の連続性」の中で、たまたま現在、意識を持っている自分がこの身体を預かっていることになる。父母の愛しい子である「私」であり、子の尊い親である「私」である。「私」は生命の連続性の中で決して自己完結しない存在だということだ。
そうであれば、自分の身体をどのように処分しようが「個人の自由」ということにはならない。ふしだらな行為は慎まなければならない。
売春が禁じられている理由はそのように理解されるべきなのであろう。
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