髙橋史朗 3 – 道徳教育が「育くんでこなかったもの」とは
髙橋史朗
モラロジー研究所教授
麗澤大学大学院特任教授
●「冷たく」分析し、「温かく」同化
「考え議論する道徳」の前に、「感じる」道徳教育が必要ではないかと考えるようになったきっかけは、次のような文章を目にしたことにあった。
<姫路市のある小学校4年生の国語の授業――新見南吉の「ごんぎつね」を勉強していた。いたずら狐のごんを撃ち殺した兵十が、自分の思い違いを知り、思わず取り落とした火なわ銃。そこから苦渋と悔恨の「青いけむり」が立ち上る。作中のクライマックスに授業はさしかかっていた。
指導者は中年の女性教師である。指導計画書には、「ごん、お前だったのか、いつも、栗をくれたのは」という兵十の言葉を数人の子どもに言わせ、兵十の驚きを子どもたちそれぞれに体験させたい、とある。
「子どもたちは、さて、どのように読むのかな」私は固唾をのんで見ている。
「さあ、この、言葉ね。誰か読んでくれる? 兵十の気持ちになって」
「……」
「あれ、誰も手が上がらないの? 横田君」
たまりかねた先生は、前の端に座る元気そうな男の子を指名した。
「エッ、ぼく?」
「そう、読んでごらん」
「いや、いやよね」
「どうして?」
「恥ずかしいもの」
「エッ、恥ずかしい? まあ、じゃ、ほかの人は?」
「……」
すると先の横田少年は責任を感じたのか、くるっと後ろを向いた。
「みんなで、いっしょに言おう。セーノー」
兵十の、万感の思いがこもる先の言葉は、こうして、クラスみんなの斉唱で読まれた。
「セーノーか……。うーん残念」
ところがこのクラスは決して沈滞したクラスではなかった。その証拠に、気を取り戻した先生が、「じゃあね、こう言った兵十の気持ちはどうだったでしょう。その気持ちの言える人?」と言うや否や、子どもたちは、堰を切ったように挙手をし、元気よく次々に発言する。
「しまったと思います」
「悲しい気持ちだったでしょう」
「謝りたい気持ち」
「泣き出したかった」
「なんとも言えぬ気持だった」など。
見事な心理分析である。兵十の言葉を自分の音声では言えなかった子どもたちが、兵十の気持ちはこうだったと解いてみせる。つまり子どもたちは、「冷たく」分析して説明することはできても、「温かく」同化して自己表現することはできない。なんという倒立だろう。>
●「社会性と情動の学習」プログラムの提案
現代っ子は冷たく分析できるが、温かく共感できない。この問題点は従来の道徳教育にも共通して見られました。読み物資料の「心情理解」(認知的共感)に偏り、「情動的共感」を育んでこなかったといえます。
近年の「共感性」に関する心理学的研究によって、共感能力の2大神経ネットワークは、メンタライジング(「他人の心を読む」認知的共感)とミラーニューロン(情動的共感)システムであることが明らかになりました。
人間はこの二つの共感能力に基づいて社会的行動を行いますので、両方を共に育む「感知融合」の道徳教育が求められているといえます。東大の信原幸弘教授は「情動こそが道徳の基盤」と指摘し、日本心理学会をリードする同大の遠藤俊彦教授らも「情動の合理性」を心理学的に研究し、感情知性(EI)を育む「社会性と情動の学習」プログラムを幼小中及び保護者向けに提案しています。
令和元年11月10日に広島大学で開催された日本道徳教育学会のシンポジウムで、島根県立大学の山田洋平准教授がこの学習プログラムに基づく具体的な授業の進め方と福岡で2年間実践した画期的成果について報告され、「読む道徳から、感じる、考える、議論する道徳へ」という結論で研究発表を締めくくられ、大きな反響がありました。
私自身も日本道徳教育学会(広島大学)と日本感性教育学会で、同様の問題意識から「感知融合」の道徳教育について研究発表しましたが、来年は具体的実践論に踏み込んで、「道徳性の芽生えを育む幼児教育・家庭教育との連携」をテーマに、麗澤大学院生との共同研究に取り組みたいと思っています。
※道徳サロンでは、ご投稿を募集中!