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言論人連載コーナー

八木秀次 – 皇位継承を完成させる大嘗祭の意義

八木秀次

麗澤大学教授

 

●一世一度の重儀

 天皇陛下は十一月十四日(木)の夜から翌十五日(金)の未明にかけて 大嘗祭{だいじょうさい}を執り行われる。皇位継承は、五月一日に行われた「剣璽等承継の儀[けんじとうしょうけいのぎ]」と、十月二十二日に行われた「即位礼正殿の儀[そくいれいせいでんのぎ]」でもって、法的・政治的には完了する。しかし、「天皇」の伝統的性格は、それだけをもって新天皇を「天皇」とはしない。天皇は我が国を統[す]べる「祭祀王」としての性格を有している。それゆえ、その性格を備えるために必要な儀式が皇位継承には不可欠となり、それが大嘗祭である。大嘗祭を行わない天皇は「天皇」としては完成しておらず、「半帝」と呼ばれた。
 大嘗祭は、天皇即位後に最初に行われる大規模な新嘗祭[にいなめさい]であるとされ、一世一度の重儀だ。新嘗祭については、八世紀に編纂された我が国最古の歴史書『古事記』『日本書紀』にも皇祖・天照大神[あまてらすおおみかみ]が新嘗の祭を行われたことや上古の天皇が新嘗の祭を行われた記述が見られる。七世紀中頃までは、大嘗祭と新嘗祭との区別はなかったが、第四十代・天武[てんむ]天皇のときに初めて、大嘗祭と新嘗祭とが区別された。
 以後、大嘗祭は一世に一度行われる極めて重要な皇位継承儀式とされ、歴代天皇は即位後必ず行われることが皇室の伝統となった。中世には承久の乱で退位した仲恭[ちゅうきょう]天皇や、南北朝内乱期の後村上[ごむらかみ]天皇、後亀山[ごかめやま]天皇のように大嘗祭を行えなかった天皇もあった。また応仁の乱直前の後土御門[ごつちみかど]天皇を最後として二百二十年間中断した。江戸時代の東山[ひがしやま]天皇の即位で簡略な形で復興されたが、次の中御門[なかみかど]天皇では行われず、桜町[さくらまち]天皇からは継続して今日に至っている。

 

●大嘗宮の儀

 新嘗祭が常設の宮中の神嘉殿[しんかでん]で行われるのに対して、大嘗祭は臨時に「大嘗宮[だいじょうきゅう]」を造営して大規模に行われる。大嘗宮は皮のついたままの樹木「黒木[くろき]」で造られる。古代のままの簡素な姿だ。大嘗祭の終了とともに解体される。
 神饌用の米は、新嘗祭が宮内庁御田で収穫されたものを充[あ]てるのに対して、大嘗祭では民間の悠紀[ゆき]・主基[すき]の斎田から収穫されたものを充てる。大嘗祭は国民が支える儀式でもある。悠紀は東日本、主基は西日本を指す。悠紀田、主基田の指定は、宮中祭祀を担う掌典らが薄く加工されたアオウミガメの甲羅を焼き、亀卜[きぼく]によって決められた。その結果、今回の悠紀田は栃木県、主基田は京都府と決まった。十月に「斎田抜穂[さいでんぬきほ]の儀」が行われ、天皇から つかわされた「抜穂使」が、祝詞を奏上したあと、収穫作業を行った。初めに抜いた四束から採れた米で神饌と天皇自らが食される御飯[みい] をつくり、残りの米で黒酒[くろき]・白酒[しろき] をつくる。
 大嘗祭では、天皇は念入りに身を清められ、大嘗宮の、まず「悠紀殿」に籠[こも]られ、口伝の「秘儀」を行われる。天皇が御自ら、天照大神と天神地祇に対して、「平手」という柏の葉で作った皿に、天皇御自らが竹箸を執られ、「よね(米)」「あは(粟)」や黒酒・白酒、海産物の「なまもの」、干した魚などの「からもの」、海藻の汁物である「めのしる」、そして鮑や果物などを盛り付けられる。天皇が行われる作法は五百回以上ある。
 以上の「供進」と呼ばれる儀式の後、「御直会[おんなおらい]」と呼ばれる儀式において、天皇が頭を低く下げ、柏手を打った後、「唯[おお]」という声を出された後、ご自身も米・粟・白酒・黒酒を食される。同じ儀式が、大嘗宮の「主基殿」でも夜半から未明にかけて行われる。
 米とともに粟が神饌とされていることには大きな意味がある。今でこそ日本全国で米は収穫できるが、南方系の作物である米は寒冷地では収穫できなかった。そこでは畑作が行われ、粟などの雑穀を主食としてきた。また、粟は、稲作が伝わる以前の縄文時代から食されてきた古い穀物でもある。古くから、そして日本全土で食されてきた穀物の代表として米と粟が神饌となり、天皇が御自ら食されることで日本全体が統合される(統べられる)という意味を持つ。

 

●自らを「民の父母」と認識

 大嘗祭は、神饌の「供進」と「御直会」に本義があるとされる。これは、日本全土での五穀豊穣を新天皇が天照大神と天神地祇に祈られるとともに、五穀豊穣を可能とするよう災害がないことを祈ることである。日本は災害が多い国でもある。阪神・淡路大震災、東日本大震災をはじめとする各地での地震、近年の豪雨や台風などの水害でも多くの人が亡くなり、国民生活に大きな影響を与えている。
 天皇陛下は、五月一日の「即位後朝見の儀」で「ここに、皇位を継承するにあたり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽[けんさん]に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します」と述べられた。注目すべきは「歴代の天皇のなさりようを心にとどめ」と述べられたことだ。
 平成二十九年二月二十日、五十七歳のお誕生日を前にしてのご会見で皇太子時代の陛下は、前年八月に愛知県西尾市の岩瀬文庫を訪れた折に、戦国時代の十六世紀中頃、洪水など天候不順による飢饉[ききん]や疫病の流行に心を痛められた後奈良[ごなら]天皇が、苦しむ人々のために、諸国の神社や寺に奉納するために自ら写経された宸翰般若心経[しんかんはんにゃしんぎょう]のうちの一巻を拝見する機会に恵まれたとされ、その奥書に「私は民の父母として、徳を行き渡らせることができず、心を痛めている」旨の天皇の思いが記されていたことに触れられた。
 その上で「災害や疫病の流行に対して、般若心経を写経して奉納された例は、平安時代に疫病の大流行があった折の嵯峨[さが]天皇をはじめ、鎌倉時代の後嵯峨[ごさが]天皇、伏見[ふしみ]天皇、南北朝時代の北朝の後光厳[ごこうごん]天皇、室町時代の後花園[ごはなぞの]天皇、後土御門[ごつちみかど]天皇、後柏原[ごかしわばら]天皇、そして、今お話しした後奈良天皇などが挙げられます」と歴代天皇の名前を挙げられた後に「私自身、こうした先人のなさりようを心にとどめ、国民を思い、国民のために祈るとともに、両陛下がまさになさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、共に悲しむ、ということを続けていきたいと思います」と述べられている。即位後朝見の儀での「歴代の天皇のなさりようを心にとどめ」と同じ表現だ。自らを「民の父母」とご認識され、災害に苦しむ国民を慈しむお気持ちを示されている。新天皇として災害予防を祈られることも大嘗祭の大きな意義だ。

 

(『モラロジー研究所所報』令和元年11月号「令和のオピニオン」③より)

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