西岡 力

西岡 力 – 道徳と研究3 謝罪することの意味

西岡力

モラロジー研究所教授

麗澤大学客員教授

 

 

●告発には大変な勇気が必要だった

 私が慰安婦問題に対する朝日新聞のねつ造記事をはじめて告発したのは、月刊『文藝春秋』平成4年4月号に書いた「『慰安婦問題』とは何だったのか」という論文だった。そこで、同社の植村隆記者が前年8月に名乗り出た元慰安婦金学順さんについて、①本人は貧困の結果、母親にキーセンとして売られ慰安婦になったと繰り返し話していたのにその真実を書かず、②本人が一度も語っていない「女子挺身隊の名で戦場に連行された」とウソを書き、③記者の妻が日本政府を相手に裁判を起こした遺族会の幹部の娘であり、結果として紙面で自分の家族の裁判を有利にするウソの記事を書いた、と批判した。

 そのときはまだ、日本全体が権力による慰安婦強制連行があったと信じていたので、以上のようなことを書くには大変な勇気が必要だった。当時の月刊『文藝春秋』の編集長が私に「西岡さんと私が日本中から人非人だと言われてもやりましょう」と言われて、事実関係の徹底した調査を行ったことを思い出す。

 

●道徳上の謝罪は自称被害者の主張にするものではない

 まず考えたことは、道行く少女を日本軍が暴力的に連行して性の慰み者にしたことが事実なら、人道に対する罪だから公式謝罪と補償が必要だが、当時、合法だった公娼制度の枠の中で親の借金を返すために慰安婦になったのなら、同情はするが公式謝罪や補償の対象ではないという原則だった。

 そして、謝罪について深く考えさせられた。目の前に被害者を自称する者と、それを応援する自称良心的な支援者が現れたとする。私の場合は、慰安婦だった韓国人女性と朝日新聞記者や弁護士らが目の前にいた。被害者を自称する者と良心的だと自称する支援者らの主張をそのまま信じて謝罪することが正しいのかという問いだ。

 私は法律上の謝罪はある意味強要されるのだから真の謝罪ではない、道徳上の謝罪、自身が道徳上の罪を認めて行う謝罪こそが真実の謝罪だと考える。そして、道徳上の謝罪は自称被害者、弱者にするものではなく、いいかえると彼や彼女たちの主張に対してするのではない。ただ、自分が道徳的罪を犯したと自覚したとき自発的に心の底からわいて出てくるものだ。

 そこで突き当たるのが自称良心的支援者はもちろん、自称被害者もウソをつくただの人間に過ぎないという真理だ。キリスト教とユダヤ教の共通する経典である旧約聖書に「あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい」という言葉がある。正しい裁きは弱い者を偏ってかばわない、という教えだ。

 

●反日運動の道具とされた元慰安婦

 私は文藝春秋論文で自称良心的支援者がウソをついて日本中をだましていると告発した。雑誌が出た直後、現代史学者の泰郁彦先生から電話をいただいた。先生は、私の論文を読んで自分もこれから本格的に慰安婦問題研究に取り組むことにした、名乗り出た元慰安婦は権力による強制連行の被害者ではなかったことが分かったので、自分は近く軍と一緒に済州島で強制連行を自分が行ったと証言している吉田清治について調べるため済州島に現地調査に行く、と話された。そして、西岡論文を読んだ後、金学順さんの裁判を起こしたT弁護士に電話したら彼も西岡論文を読んでいて、「もう少し説得力のある慰安婦はいないのか」と泰先生が問いただすと「実は私もそう思って韓国に探しに行ってきた。追加分は良いのばかりですよ」と答えたと教えて下さった。

 私はそのやりとりを聞いてT弁護士の偽善者ぶりに強く腹がたった。金学順さんの人権を本当に考えているなら、彼女が名乗り出たときに詳しく慰安婦になった経緯を聞き、あなたは貧困による被害者であって権力による強制連行の被害者ではないから裁判原告にはふさわしくないと説得すべきだったのだ。ところが、反日運動の道具としか被害者を考えていないから彼女を前面に出し、その結果、私が親に売られたという彼女にしたらあまり触れてほしくない経歴を論文に書くことになった。そうしたら、彼女をかばわず、使い捨てにしたのだ。

 

 

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