山岡 鉄秀

山岡鉄秀 – 道徳二元論のすすめ-グローバル時代を生き抜くために

山岡鉄秀

モラロジー研究所 研究センター研究員

●「道徳心」を行動基準とする稀有な民族

 もう四半世紀前のことですが、豪州のシドニー大学大学院に留学し、しばらくシドニーで生活してから気が付いたことがあります。それは道徳観の違いです。

 もちろん、西洋社会の一員である豪州にも道徳という概念はあります。もともとキリスト教国ですから、キリスト教に根差した道徳観、倫理観があるわけです。しかし、世俗化、無宗教化が進むと共に、かつての白豪主義とは真逆の多文化主義を推し進めた結果、非キリスト教圏からの移民も多数を占めるようになると、キリスト教的道徳観や倫理観を共有する人が多数派とは言えなくなってきます。

 ではどうなるか? 物事の善悪を判断する拠り所として、法律、規則、ポリシー、契約などが重要になるのです。極端な言い方をすれば、紙になんて書いてあるか?です。だから、弁護士の数がやたらと多くなる傾向があるのも頷けます。

 一方、日本人は普段意識していませんが、国民が一般的に「道徳心」を基準に行動する稀有な民族です。だいぶ薄れてきたとはいえ、法律にどう書いてあるかよりも、道徳的に正しいかどうかに基づいて行動する習慣がまだ残っていると思います。法律論になるのは、常識や良識で解決できないときですから、あまり望ましいことではありません。さらには、日本では弁護士や裁判官まで道徳的なことを口にすることが珍しくありません。

 どちらのほうが優しい文化かというと、やはり日本のほうが優しいと言えるでしょう。その代わり、常に曖昧さがついてまわることは否めません。いやむしろ、円滑な人間関係のためには、少しぐらいの曖昧さを残したほうがいいと、曖昧さに積極的な意味を見い出していると言っても間違いではないでしょう。

●日本的美徳は外国人に通用しない

 ところが、国際化、グローバル化がどんどん進む時代に、外国が相手となると、この日本的な道徳観が全く通用しないばかりか、仇になってしまうことが頻繁に起こるようになります。

 先日、国際線の機内映画で、『空飛ぶタイヤ』という作品を観ました。ご存知の方も多いと思いますが、財閥系の自動車会社がトラックの構造的欠陥を組織的に隠ぺいし、ついには走行中のトラックのタイヤが脱輪して死亡事故に至った実際の事件をベースに作られています。原作は池井戸潤さんの小説(講談社文庫)です。

 この映画を観ていて、非常に印象に残ったシーンがありました。

 事故を起こした長瀬智也さんが演じる運送会社の社長と幹部社員が、悲嘆にくれる遺族(夫)の元を訪ねるのですが、全員、一言も言い訳せず、「申し訳ございませんでしたー!」と深々と頭を下げるのです。

 突然妻を失った夫は、運送会社の整備不良が原因だと信じ込んでいますから、ひたすら謝る運送会社の社長と社員に言い放ちます。

「整備不良が原因ではないと主張しているそうじゃないですか! あなた方はそれでも人間なのですか!?」

 実際、運送会社側は、事故を起こしたトラックは完全に整備されており、原因はトラックの構造的欠陥にあると確信しているのですが、それを一切説明しようともせず、ひたすら頭を下げて謝ります。

 私はこれぞ日本的美徳だと感じました。運送会社側は、自分たちの責任ではないと確信していながらも、頭を直角に下げて謝罪することで、ひたすら同情と誠意を示しているのです。言い換えれば、人間として正しい姿を示そうとしているのです。

 これ、外国人には全く通じません。このように謝罪したら、自ら刑事的な罪を認めたことになってしまいます。「誠意」とか「同情」など関係ありません。謝ること=罪を認めること=賠償責任を取ること、と自動的に流れてしまいます。極めて危険な行為です。

 この基本的な、そして重大な違いを理解できず、日本企業も日本政府も何度も同じ間違いを繰り返し、莫大な損害を出し続けてしまいます。(つづく)

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