菅野 倖信

菅野倖信 – 日本軍に接した中国人民が驚愕! 本当の人民解放軍は日本軍だ!?

菅野倖信(すがの よしのぶ)

㈱オリエンタルプロセス代表

モラロジー研究所特任教授

 

 

 私たちが習ってきたこととは違う事実があることを、どうしても知って頂きたく今回の話を取り上げさせていただきました。
そしてその話の中に、日本人の本当のやさしさを感じていただけたらと願います。

 

 先の大戦にて、中国軍と日本軍の性格を大ざっぱにみるなら、次のように言うことができます。

 

 中国軍が通った地は至る所、略奪されました。

 

 さらに彼らは占領地域を去るとき、日本軍に何も残さないようにするため、「焦土(しょうど)作戦」を取りました。
つまり退却のたびに、道路や工場、橋、灌漑施設、その他の施設を次々に破壊したのです。
それによって、人民は苦しむばかりとなっていました。

 

 一方、その後にやって来た日本軍は、当初から農民たちの救済と、中国経済の再建に取り組んだのです。

 

 日本軍が占領した地域は、中国本土の人口の約40%、また耕地面積の54%に及びましたが、日本はすぐにその地域での農業再建、道路や灌漑施設の復興、工場の再建などに取り組みました。

 

 日本は中国の住民の救済、治安維持、戦災復興などに取り組んだので、それまで軍隊とは匪賊にすぎないと思っていた中国本土の民衆は驚き、日本軍を熱烈に歓迎しました。

 

 統率がとれ、略奪や悪事を働かず、民衆を救う軍隊というものを、彼らは生まれて初めて見たからです。

 

 本当の「人民解放軍」は中国軍ではなく、日本軍だったのです。
日本が占領地域でとくに力を入れたのは、農民の救済でした。

 

 日本政府はすでに、1938年に中国での農業復興の計画を発表し、実行に移しています。
それにより、日本の占領地域での農業は飛躍的に増大しました。
日本人技術者が中国農民に、日本の農業技術を提供していったからです。
農業だけでなく、軽工業、重工業などの再建にも取り組みました。

 

 日本はまた中国に鉄道を敷き、病院を建てました。
疫病の多かった中国の衛生事情の改善にも努めました。

 

 さらに、絶望視されていた中国製糸業を復興させたのも、日本の対中国投資によるものです。

 

 日本は、満洲や、朝鮮、台湾などで行っていた近代化建設を、中国でも、既に支那事変(日中戦争?)のさなかから始めていたのです。

 

 日本政府の推計によると、1938年から終戦の45年までの日本の対中国投資の累計は、約47億円にも達していました。
当時の日本の国家予算は、約20億円ですから、どれだけ巨額かわかるでしょう。

 

 これは戦争に使ったお金ではありません。中国の国土と経済の復興に使ったお金なのです。

 

 このように、中国軍が各地を焦土化し、同胞を虫けらのように殺していた時に、日本は中国民衆の救済と、中国の近代化のために働き続けていました。

 

 中国人民の本当の敵は、日本軍ではなく、中国軍だったのです。
中国軍は、蒋介石の国民党軍も、毛沢東の共産軍も、その頭にあったのは中国人民のことではなく、権力奪取のみでした。
しかし日本は、なんとか中国を救おうと奔走していたのです。

 

 ですから、中国の老人で、この時代のことを体験した人々の中には、親日的な人々が大勢います。

 

 普段は中国政府の叫ぶ反日イデオロギーの中で、大きな声では発言できませんが、彼らは当時の日本人が中国人にしてくれたことを知っているのです。

 

 戦後、日本人が中国大陸から引き揚げてくる時、多くの日本人が帰りそこなって、取り残されました。(いわゆる中国残留孤児)。
しかしその時、残留日本人を助けてくれた中国人たちがかなりいました。
その中国人の多くは、戦時中の中国兵がいかに悪かったか、また日本軍が、中国の民衆を助けてくれたことを、よく知っていたので、日本人を助けてくれたのです。

 

 ローマ法王は日本の行動を支持しました。
もともと、中国内戦に巻き込まれたかたちで、中国内部に足を踏み入れた日本軍でした。
しかし踏み入れた以上、日本は、そこが共産主義国になってしまうのを防ぐため、多大な尽力をなしました。

 

 またそこに、欧米の侵略や搾取の餌食とならない、自立した民主的国家が誕生するよう、手を差し伸べたのです。

 

 日本は中国を「自分の領土」とするために戦ったのではありません。
日本は中国の「領土保全」をかかげ、誰からも侵略されない、中国人による中国のための安定した国家が、そこに誕生することを目指したのです。

 

 そして日本と手を携えて、アジアを共産主義から守る防波堤になること、そこに一大経済圏(東亜の新秩序、後の大東亜共栄圏)が生まれることを目指しました。
ですから、日中戦争(支那事変)が始まった年である1937年、10月に、当時のローマ法王、平和主義者として知られるピオ11世(在位1922~39)は、この日本の行動に理解を示し、全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼び掛けました。

 

 法王は、
「日本の行動は、侵略ではない。
 日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。
 日本は共産主義を排除するために戦っている。
 共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」
といった内容の声明を出しています。

 

 この声明は当時の日本でも報道されました(「東京朝日新聞」夕刊、昭和12年10月16日および17日)。
新聞は、
「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解(りょうかい)するものであり、知己(ちき。事情をよく理解している人)の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。
 英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」
と歓迎の意を表しています。

 

 ローマ法王がこのように、日本の行動に賛意を表してくれたことは、欧米の誤解や反日主義に悩まされてきた日本にとって、非常にうれしいことでした。

 

 けれども、そのピオ11世も、やがて1939年には、世を去ってしまいます。
そのため欧米の反日主義や、日米戦争勃発を防ぐまでには至らなかったのです。

 

【海外が感動する日本の力チャンネル】より

 

◎「大陸での戦いで、亡くなられた日本軍兵士たちの勇気と行動力、そして人心救済を優先した歴史の事実が日本中の人から人へと広がればと願います。」

 

 現代普通に述べられるようになっている「日中戦争」は、私が学校で学んだ教科書では、「支那事変」とありました。
これは、中華民国の一部勢力(蒋介石ひきいる国民党軍と共産党軍)との紛争であったからです。
中華民国のその他の勢力であった、汪兆銘ひきいる中華民国南京行政府とは、昭和15年に日華基本条約(講和条約)を終戦時まで締結していたのです。
よって、日本は、中華民国との全面戦争の認識は無く「支那事変」と称したのです。
それなのに、戦後の私たちの学んだ教科書までが、終戦時に国でもなかった隣国の主張するこれが正しい歴史だとの威圧に、従うかのように変更されていることに怒りさえ覚えます。

 

 隣国、現中国(中華人民共和国・建国昭和24年10月1日)は、「我が国は先の大戦、「中日戦争」に勝利した。と平気で言うが、我が国の終戦は昭和20年、現中国は、敗戦後の日本に喧嘩を売ってそれにでも勝ったと国際的に大ぼらをまき散らしているのでしょうか…?

 

 皆様は、上記の内容にお目通しをいただき、今後、「日中戦争」の語に疑念を抱いていただけたら、そこから赤いベールに隠された大陸での日本の歩んだ真の姿が少しずつ解きほどかれると思います。

 

(菅野倖信メールマガジン:「特選やさしさ通心№030」より)

 

 

 

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