野口芳宏 – 人物教材の活用 ―明治天皇の場合(上)―
植草学園大学名誉教授、教育者講師 野口 芳宏
1、幕末の世情、動向
明治時代というのは、日本にとって文字通り画期的な時代である。徳川幕府による300年の政治体制が、天皇による政治へと切り変えられた大変革は、一つの革命的な大事件である。大政奉還、王政復古は、アジアで初めて近代化に成功した日本の誇るべき岐路の選択であった。
孝明天皇が崩御されたのが慶応2年12月である。翌慶応3年1月、明治天皇が践祚の儀によって天皇の地位につかれるが、この時の天皇の御年は何と数え年で16歳、現在で言えば中学校の3年生である。翌年慶応4年が明治元年(1868年)であり、天皇は数えで17歳、今で言えば高校1年生である。この若き天皇陛下に日本の近代化の舵取りが託されたのである。それから明治45年7月、61歳で崩御されるまでの45年間を在任された。その御生涯は、まさに激動と波乱に満ちた近代化への苦難の唯中で送られたと言ってよい。
江戸時代の天皇はずっと京都の御所にあって、朝廷の業務を執られていた。この間の事情については『明治の御代』(勝岡寛次著、明成社、平成24年刊)に次のように書かれている。
「江戸時代の天皇は幕府に監視され、京都御所の中から一度も出られない、実にご不自由な生活を忍ばれていたのです。そればかりではありません。幕府は、大名が参勤交代の途次に京都に立ち寄ることさえ禁じていますので、西国の大名はわざわざ京都を避けて迂回せねばならず、また大名と朝廷の直接的な接触を一切禁じられていました」(P.25)。
このような幕府の朝廷対策について、勝岡氏は次のように解説する。「大名の地方権力と朝廷の権威が結びつくと、幕藩体制の根幹をも揺るがしかねないと判断されたからで、それだけ幕府は朝廷の権威を恐れていたと言えるでしょう」(同)。
ここでは「権力」と「権威」という言葉とが明確に使い分けられている。幕府や大名には「権力」はあったが、「権威」ということになると、それは到底朝廷とは比べものにならないほど小さかったと言う他はない。権力とは言わば物理的な力であり、権威というのは精神的な力である。幕府の権力だけでは収拾がつかない事態がついにペリーの来航によって生じた。幕府は国論を統一することができず、大きな混乱を招く失態を犯した。そこで国民は朝廷の権威に改めて心を向けるようになる。国民は、自分たちの国の中心は幕府や将軍ではなく天皇なのだということに少しずつ気づいていったのである。
2.明治天皇の偉業
明治時代は明治天皇の御代、明治天皇の時代だと言っても過言ではない。それほどに明治天皇のご存在、お力は大きい。その全容を伝えることなど到底できるものではない。そこで、「道徳」の授業では、せめてこれだけはと絞りに絞って扱う他はない。それでも2回になる。
①五箇条の御誓文
正式に天皇としての地位に立たれる儀式を践祚と言う。慶応3年1月に践祚された明治天皇は、まだ数えで16歳になられたばかりの少年であった。これから先の日本がどのように歩むべきか、何をこそ為し、何は改めるべきか、それらは極めて不透明だった。加えて国内の世情も決して平穏ではなく、むしろ騒然としていたという方が適当であろう。
そこで、明治の改元に当たって、この国が進むべき根本方針を定め、それを天皇自らが「神に誓う」という形で国民に示すことになった。歴史の授業でその言葉ぐらいは誰も知っているだろうが、各誓文の詳しい内容や本当の価値や意義については殆ど理解されてはいないのが現状だ。
五箇条の御誓文は、明治維新の精神の具体的指針であり、明治元年3月14日に布告された。原文は歴史的仮名遣いだが現代風に改めて示すことにする。
一、広く会議を興し、万機公論に決すべし
これがトップの誓文である。独裁的な封建制度を廃し、会議によって物事を判断し、決定し、公正な立場に立って政治を進めて参ります、という誓いである。これは民主主義の根本精神とも言える。新しい日本の夜明けを誓う堂々たる宣言である。日本の民主主義は、敗戦によってGHQから与えられたものだという見方があるが、そんなことはない。明治元年に、天皇はこれを誓文のトップに掲げ、これからの日本の進むべき方向を明示したのである。「万機」は多くの政治上の重要な事柄、という意味である。これ一つとっても、日本の近代化が大儀の下に胸を張って進められていった気概を読みとることができよう。
「皆朕が罪なれば――」――「明治維新の宸翰」
条文の二に進むべきところだが、どうしてもここに割りこんで特記しておきたいことがあるので、ここに記したい。御誓文告示の同日、天皇は「明治維新の宸翰」を天地神明に誓われた。天皇としての心構え、である。それは、「今般朝政一新の時に当たり、天下億兆、一人もその処を得ざるときは」と始まる。「心新たな出発に当たって示した方針に一人でも違うようなものがあった時には」という意味である。俗に考えれば、この後には「許さない。罰するぞ」という意味の言葉が続きそうである。それは上に立つ者が告げる常套だからだ。
ところが、そうは続かない。何と! 「皆朕が罪なれば、今日の事、朕自ら身骨を労し心志を苦しめ、艱難の先に立ち――」と続くのだ。「それは、天皇自らの力が及ばざる罪です。よって天皇は、本日示したことの実現のために、自ら骨身惜しまず、心を引き締め、苦しみ、これからの困難な苦労の先頭に立って歩む覚悟です」という誓いなのである。
16歳の少年天皇の、これが神に誓われた直筆の文書の文言である。世界のどこにこのような皇帝がおられたであろうか。日本の歴代の皇室、皇統の根本精神は、常に「国安かれ、民安かれ」という「国民第一」のお心にあったことが分かる。もったいなくも尊い、そして国民にとってはまことに有り難く、誇りとすべき天子の大御心ではある。教師がこれらを子供たちに語れば彼らも大きな自信と誇りを持つにちがいない。
<『モラロジー道徳教育』NO. 151 平成30年6月1日発行より>