「良かれと思ったのに」の落とし穴
相手のためを思って行動を起こしても、その結果が必ずしも「相手のため」にはならないケースがあります。
私が小学校四年生のときの出来事です。算数の授業時間が終わる間際、先生がこんな問題を出しました。
「一辺の長さが一メートルの正方形の面積は、何平方センチメートルでしょうか」
求められる解が「平方メートル」ではなく、「平方センチメートル」なのがミソ。私は何度かの間違いの後、正解にたどり着きました。私の隣席では仲よしの友人Fが、首をかしげながらノートの上の数字をにらんでいます。正解が遅れれば遅れるほど、休み時間が削られます。そこで私は、友人Fのノートの隅に書き込もうとしました。
その瞬間、
「何をしとるか!」
という大きな声。教壇のN先生が私を睨んでいます。しどろもどろになる私に、N先生はこう言いました。
「この問題は答えだけ分かっても意味がない。
解けてしまえば〝なんだ、そんなことか〟と思うだろう。
だが、自力で解き方に気づき、解けた喜びを得ることが大事なのだ。
そうした喜び、いわば一生の財産を、お前はFから奪う気か」
正直、私にはその発想はなく、返す言葉もありませんでした。
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自分自身の努力によって壁を乗り越えたり、物事を達成したりしたとき、その人の心の中には自信や満足感が生まれます。
周囲の手助けが、その人の達成感や成長する機会を奪う結果になってしまうとしたら、お互いの損失につながります。
手を差し伸べる側は、その行為を受ける側の個性や能力、適性などを見きわめて、その人が本来持っている力を十分に発揮できるように、心を配らなければなりません。
どんなときも、
「自分も相手も、さらには第三者も含めた全体の調和を図りながら、物事を発展させていく」
という、建設的な考え方に基づいて行動したいものです。
相手への思いやりを心がけてこそ、周囲の人に安心と満足を与え、共に大きく成長していくことができるのではないでしょうか。
誰かに手を貸すとき、「それは〝相手のため〟になりますか」と、自分に問いかけてみましょう。答えは心の中にきっとあるはずです。