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モラロジー研究所の玉井哲講師が、さまざまなお悩みに答えます!!
Q:「結論の見えない話」にイライラする
「とりとめのない雑談」が苦手です。余計な前置きが長く、なかなか結論にたどり着かない話を聞かされると、ついイライラしてしまいます。忙しいときに限ってそういう相手につかまることが多い気がするのですが、早く話を切り上げたいという気持ちが態度にも出てしまい、不穏な空気になることもしばしばです。心に余裕を持つには、どうしたらよいでしょうか。
(30代・男性)
A:自分を変えるチャンスに
結論のはっきりしない「とりとめのない雑談」が苦手なあなた。できることなら、そんな相手とも快く付き合える自分になりたいという気持ちを抱いておられるようです。
人にはそれぞれ、性格や癖というものがありますから、「苦手な相手」や「苦手な物事」に遭遇することもあるものです。とはいえ、私たちの人生には雑談も大切な要素です。ここは「自分の成長」につなげていく方向で考えてみることにしましょう。
時・場所・場合にもよりますが、とりとめのない雑談にいつでも喜んで付き合うという人は、あまり多くはないでしょう。息抜きの際の雑談ならともかく、働き盛りの世代が寸暇を惜しんで仕事をしているときは、なおのこと「無駄口に巻き込まれるのはごめんだ」と思われるのは自然です。もし仕事中の雑談に悩まされているのなら、あなたがイライラするまでもなく、本人も周りの冷たい視線に気づくのではないでしょうか。
ところで、あなたがそのような相手にイライラし、自分のペースを乱されることに悩んでいるというのは、あなた自身にも問題があると考えるのが賢明ではないでしょうか。相手に問題があるにせよ、あなた自身が他人の言動に振り回されることなく、自分のなすべきことに集中できる力を身につけることも大切であると考えるからです。
あなたは優しく控え目な性格なのでしょうか。相手の話を途中で遮ることができず、自分の意見や都合を伝えることにも慣れていないようです。これは対決を嫌い、和を大切にする日本人一般の傾向でもあるようですが、共通の目標に向けて柔軟に意見を積み重ねていくという対話の習慣を持ちたいものです。対話や議論によって相互理解を深めるためにも「関係を損なうことなく、自分の考えを正しく伝える力」を身につける必要がありそうです。
あなたをイライラさせる相手とのかかわりも、そうした力を育むチャンスと考えてはどうでしょうか。尊敬と信頼を基本に、素直な気持ちを言葉にして伝える訓練をするのです。胸襟を開いて語り合える相手がいれば、なお効果的です。失敗をも糧としてこの能力を養うことができれば、その相手への対応力だけでなく、人間力を磨くことにもつながるでしょう。今が自分を変えるチャンスと考え、勇気を出して挑戦してください。
令和3年1月号
Q:家庭生活と将来への不安
20代のころに病を得て、長い療養生活を送ってきました。近年やっと健康になり、働けるようになりましたが、40代になった今も独身で両親と同居しています。家族との間には昔から確執があり、特に父親との関係がよくありません。今の生活に出会いのチャンスはほとんどなく、このまま結婚できずに家庭環境が悪いまま一生を送ることになるのかと思うと、不安になります。
(40代・女性)
A:無心になって感謝して
あなたの心の痛みを癒すことはできないかもしれませんが、これからどのように人生と向き合っていくのかを、共に考えてみたいと思います。
病という大きな試練を、長い療養生活を経て克服されたことに、まずはおめでとうと申し上げたいと思います。ここまで持ちこたえてきたあなた自身の精神力もさることながら、ご両親をはじめ、関係者の皆さんの支援や努力を考えますと、喜びはいかばかりかと拝察します。
しかし、人生は一つ山を越えれば、また次の山(課題)が現れるものです。健康が回復すれば、過ぎ去った過去への思いや、やり残したことへの焦り、将来への不安などがわき上がってくるのでしょう。不安になる気持ちもよく分かります。
しかし、ここは焦ることなく自分を見つめ直し、新しく生まれ変わる気持ちで毎日と向き合いたいものです。結婚のことや、家族との確執も気になっているようですが、今は元気な自分づくりに集中するときかと考えます。今の段階で先の人生を案じても、不安がわくばかりで、プラスにはならないからです。
今は「生きる力」をつけることに集中しましょう。人生を生き抜くうえで大切なものは、体力や知力ばかりではなく、何事も感謝で受けとめる「感謝力」です。
まず、健康の回復を一番喜んでくれている家族に感謝。常に言葉や態度で感謝の気持ちを表していきましょう。自分を支える人たちとの親密な関係は、あなたを勇気づけてくれるはずです。親や友人を味方にできれば、仕事をするうえでも他の人たちとかかわるうえでも、自信が生まれるからです。
人と比較するのではなく、あなた自身の人生をさわやかに過ごしてください。将来を不安に思うより、「今の自分にできること」に集中しましょう。
聖書にも「野の花を見なさい」とあります。たくましく無心に咲く花は美しいものです。私たちも、何事に遭遇しても受けとめるべきは受けとめ、置かれた場所で感謝して咲くことを心がけたいものです。自分で自分を傷つけることなく、感謝の心で生きることが、周りの人をも輝かせることになることを忘れないでください。そして、人生の生きがいは感謝の量に比例することを忘れないでください。
令和2年12月号
Q:厚意が受け入れられなかったとき
よかれと思ってしたことなのに、その厚意を相手に受け入れてもらえない――そんなことがよくあります。例えば、電車やバスで席を譲ったのに、冷たく断られたとき。知人に挨拶をしても、一方的に嫌われているのか、無視されてしまったとき。こういう相手には、どのように対応すればよいのでしょうか。
(20代・男性)
A:不快や失敗を肥やしにして
自分の厚意を相手に受け入れてもらえないという体験に“こちらは純粋な善意だったのに……”と、少し不快になられる気持ちも分かります。
最近は子供の教育でも、地域の人と挨拶を交わすことを教えるより「見知らぬ人の声かけには気をつけなさい」と言われるようになりました。思いがけない事件が起こる中で、他人に対する警戒感が強くなっているようです。善意でかかわろうとする場合も、自分の言葉がけに注意を払う必要性を感じるようになりました。また、都市化や国際化が進むほどに、異なる文化や習慣の中で育ってきた人同士のかかわりが増えますから、さまざまな配慮が必要です。「隣近所は皆仲間」という感覚は過去のものになりつつある今、思いやりを行動に移すにも、知恵や勇気や気配りが必要な時代だと感じます。
とはいえ人間不信になっては、社会に潤いがなくなります。道徳的にも他人を信じ、相手を尊重する態度は大切にしたいものです。
そうした場面に直面したとき、私は「相手の反応を素直に受け入れること」を心がけています。相手の反応に動揺しないようにしつつ、その結果は後で冷静に振り返り、自分自身の成長の糧にしていくのです。不快な思いをすることがあっても「人間は失敗から多くのことを学ぶものである」と考え、少々のことに動じない、強い精神力を鍛えていけたらと考えています。
純粋な厚意からしたことであれば、卑屈にならず「失礼しました」と、相手の反応を素直に受け入れましょう。自分には落ち度がないと思っていても、相手の都合もさまざまですから、相手を責めず、謙虚に学んでいきたいものです。その相手が信頼する仲間であったなら、自分の気持ちを丁寧に伝え、「自分の気づかないところで不快な気持ちにさせていたのではないか」と尋ねるだけの勇気を持ってほしいものです。そして、人はこうした体験を通して真に思いやりのある大人に成長していくものだと理解してくださることを願っています。
人生は、毎日が新しい体験への挑戦だともいえます。その一つ一つの体験にどのような意味づけをし、どのように自分自身を育てていくかは、あなた自身の決断にかかっています。大地に根を張った太い幹に、味わい深い実をつけられますよう祈ります。
令和2年11月号
Q:「昔はよかった」から抜け出せない
現在、仕事や家庭に大きな問題はないのですが、50代も後半にさしかかり、昔を思い出すことが多くなりました。「去年の今ごろはこんなことがあったな」と懐かしく思うだけならよいのですが、結局「ああ、昔はよかった。若くてたくさん夢があった」という、どうしようもない結論にしかたどり着きません。心身が衰えていくのを実感する今、不満や不安ばかりで憂鬱になります。
(50代・男性)
A:人生は、これからに味わいがある
50代も半ばを過ぎた今、希望にあふれ、無我夢中で過ごしていた昔のことが、懐かしく思い出されるのでしょう。そして、心身が衰えていく不安や焦燥感とどう向き合うかという悩みのようです。
孔子は「五十にして天命を知る」と言っています。今は人生100年の時代ですから、40、50はまだ半ばですが、この時期に自分の歩んできた道を振り返る人は少なくないようです。現在あなたが抱いている感慨はきわめて自然なもので、ここは、あなたらしい人生の円熟期に入っていくための準備期間であると考えたいですね。
子供たちが自立するにつれて日々の生活に感動が少なくなり、自分の健康上の問題も含め、先の見えない不安に襲われるのは分かります。しかし、本当の人生はあきらめから始まるのです。
あえて厳しいことを言いますが、「昔はよかった」という感情から抜け出せないのは、これまでの人生を無事に送れたことに対する感謝が足りないからではないでしょうか。そんな心のすきから愚痴が生まれると考えましょう。
ここは自分の人生をしっかり受けとめるときが来ていることを自覚しましょう。人の一生は、どれほど栄耀栄華を極めても、やがて死を迎え、自然に返っていきます。ここからの時間は自己満足のために使うのではなく、周りの人たちと人生の味を分かち合うときと考えたいものです。
自分は後世に何を遺すか。財産か、事業か、精神か。それを誰に遺すのか。考えれば考えるほど、さまざまなことが浮かんでくるはずです。時間をかけて、未来につながる「自分らしい生き方」を探してください。「太く短い人生でよい」「楽しく過ごせたらそれでよい」「財を遺せなくても子孫を遺せたら」等、さまざまな考え方があると思いますが、そこはあなた自身の決断にかかっています。
不満や不安を抱えたままでいたくないというのが本音なら、まずは現状に感謝することから始めましょう。そして家族や同僚、信頼できる先輩など、身近な人たちとのつながりを大切に、明るく、人の喜びに役立てる生き方を探してください。決して焦ることなく、支えられていることに感謝しつつ、謙虚に歩んでいくのです。あなたの人生に真の味わいが生まれるのは、これからなのですから。
令和2年10月号
Q:周囲の「おせっかい」が気になる
私の周囲には、頼んでもいないのに助言をしてきたりする「おせっかいな人たち」がいます。職場でも、これからやろうと思っていた仕事を勝手に済まされていたり……。相手にしてみれば、よかれと思ってしたことなのでしょうが、された側としては「ありがた迷惑」を通り越して不愉快になることもしばしばです。こういう人たちとは、どのように付き合えばよいでしょうか。
(30代・女性)
A:「おせっかい」に負けない対話力のある自分づくりを
頼んでもいないおせっかいをしてくる人たち。相手は善意のつもりなのでしょうが、あなたは「ありがた迷惑」と感じ、どのように付き合っていけばよいかと、困っておられるようです。
最近の人間関係を眺めていますと、他人への親切には慎重で、個人の意志や自己責任を重視・尊重する傾向が強くなっているのを感じます。あなたが「おせっかいな人たち」を不愉快に感じておられるのも、今の時代の自然な感覚なのかもしれません。
人のふるまいは習慣的なもので、育った環境や生活経験の中で無意識のうちに身につけてきたものです。ですから「おせっかいな行為」についても、相手に悪意がないのであれば、相手を非難することなく、あなたの気持ちや考えを素直に伝えることが大切ではないかと考えます。
素直に自分の気持ちを表現することの大切さは分かっていても、相手にどのように受けとめられるか分からないために、自分の胸にとどめて、悶々としてしまうことはよくあるものです。
世間一般の感覚は、時代とともに少しずつ変わっていくものですが、日本人には、人間関係の「和」を第一に考えるという国民性があるようです。「和をもって貴しとなす」は日本人の美徳ですが、その実現には、それなりの知恵と対話力が必要です。
島国の日本は、異文化の脅威にさらされることなく守られてきた時代が長いためか、自分と異なる考えを持つ人との対決や論争を繰り返しながらの相互理解・相互調整を図っていく経験が乏しいようです。国際化の進む今日、相手を否定することなく、尊重しつつ対話する力を磨いて、和を実現する人間力を身につけていく必要性を感じます。
善意の相手であっても、こちらの思いに反する言動に直面することはあるでしょう。あなたの周囲には、あなたに好意的で、「日本的な思いやり」を持った人が多いのかもしれません。その中で不愉快に感じることがあったなら、感情に流されることなく、自分と相手を信じて「自分の表現力を磨くチャンス」ととらえてはいかがでしょうか。かかわることを避けるのではなく、相手を変えようとするのでもなく、素直な気持ちで語りかける勇気を持ってください。「素直な心」は共鳴し合うものと信じています。
令和2年9月号
Q:他人の「非常識」を目にしたとき
地元の図書館で読書を楽しんでいたときのことです。閲覧スペースで中年の女性が2人、読書を楽しむ様子もなく、おしゃべりに夢中になっていました。一利用者である自分の立場から声をかけるのはためらわれ、そのまま帰途に就いたものの、不愉快な気持ちが残りました。公共の場で他人の非常識な言動を目にしたときは、どのように受けとめたらよいでしょうか。
(60代・女性)
A:自分を見つめ、自分を磨こう
静かに読書をする場所で、ルールを破っておしゃべりに夢中になっている人が許せない――よくある場面に思えますが、後々まで残った不愉快な気持ちを、自分の中でどのように整理したらよいのかと悩んでおられるようです。その場面でうまく対処できなかった自分へのもどかしさもあるようですが。
常識・非常識に対する感じ方は人それぞれで、生活感覚や生活態度などによって異なりますので、一概には言えないところがあります。ただ、自分の中に不愉快な感情が残っていること自体を悪いと思う必要はないでしょう。そのように感じた自分を否定するのではなく、後味のよい対応の仕方ができるように努力しましょう。
人は他人のさまざまなふるまいを見聞きして、自分をつくり上げていきます。今回のような小さな「気づき」の積み重ねが、その人の人格や人生をつくり、さらには社会の空気をつくり、世論を形成していくのだろうと考えます。
人は「自分の判断に間違いはない」と確信すればするほど、自分の思いにこだわってしまうものです。また、相手の欠点を指摘するにしても、相手に失礼のないように、それなりの礼儀や配慮が必要です。人間は完全ではありませんから、誰にでも失敗はあるものですし、私たちの心の中では常に本能的に自分を守ろうとする気持ちがはたらきますので、自分の非に気づいたとしても素直に行動できないことはあるでしょう。
「自分の判断を押し付けるのではなく、相手の人間性を傷つけることなく、率直に自分の思いを伝えることができたら」と願いながらもうまくいかないとき、私は「自分自身の訓練」と考え、理想の自分に近づけるように努力しています。その時々の対応を振り返ると、失敗したなと思うことも多いのですが、それも人生の楽しみの一つであり、生きている証です。
今回の経験を大切に「自分も相手も、その周りの人々とも、お互いに配慮し合いつつ成長していけばよい」という気持ちを再確認しましょう。人を非難する気持ちからは、よき知恵はわいてこないものです。後味のよい人間関係をめざして、何事も自分を一歩成長させる契機と考え、自他の関係も周りの雰囲気も美しくなっていくような生き方を志していってください。
令和2年8月号
Q:ご近所同士の「愚痴の言い合い」に閉口
ご近所同士の不和に巻き込まれています。世代は違っても仲よくしてきた2人なのに、最近、別々にわが家に来ては、お互いへの不満を訴えるようになりました。若い方には折に触れて「年長者をいたわって、あなたが一歩引いてあげて」、年配の方には「若い方のことは大目に見てあげましょうよ」と言うのですが、あまりにも頻繁に愚痴を聞かされるので閉口しています。
(70代・女性)
A:鏡のように、無心で明るく
ご近所同士の世代の違う2人の不満をそれぞれから頻繁に聞かされ、うまく仲を取り持つことができずに困っておられるようです。
最近まで親しくしてこられたお2人なのに、何か気に入らないことが起きたようですね。原因は分かりませんが、あなたのアドバイスに耳を貸す冷静さもないようで、2人の気持ちが簡単に治まらないことだけは分かります。あなたにとっては無視したくない2人のことなのでしょうから、なんとか解決して元どおりの仲にと思う気持ちも分からないわけではありません。
しかし、2人の熱が冷めるまで、当面は聞き役に徹するしかないでしょう。どちらが正しいなどという判断はせず、一方に傾く気持ちを捨て、中立を保つのです。あなたにどれほどの時間的余裕があるかは分かりませんが、2人に対する好意と尊敬の気持ちは失うことなく、自分の忍耐力や信頼を培う機会ととらえてはいかがでしょうか。
愚痴とは、その人の人間性をよく表すものですから、よほど心を許せる人にしか言えないものです。あなたのように無心で耳を傾けてくれる人がいたら、もともと親しい間柄の2人のこと、当人たちも少しずつ冷静さを取り戻して、相手の思いを受け入れることもできるでしょう。
また、この事態に困らなくてはならないのは当人たちであって、あなたではないことも自覚しましょう。この状況にあなたが「困った」と感じているとすれば、あなたは2人に振り回されていることになり、あなたにとっても2人にとっても、よき友人関係を失うことになりかねません。あなたが冷静に、鏡のように澄んだ気持ちで和顔愛語(和やかな笑顔と思いやりに満ちた言葉)に徹せられるならば、2人はそれぞれに自分の気持ちを振り返り、落ち着かれると考えましょう。
人間というものは、小さないさかいを何度も繰り返しながら日々を過ごし、周囲の人たちから許され、そして生かされることで、今ここに存在できるのだと感じています。小さなことの積み重ねの上に自分の人生が形づくられていることを考えるとき、目の前に起きてくる一つ一つの出来事も、すべて自分に与えられた宿題として、逃げることなく前向きな気持ちで応えていこうと思えるのです。信じて見守りましょう。
令和2年7月号
Q:長く付き合える友人が欲しい
夫や子供には恵まれているものの、友人がいないことが悩みです。ママ友は何人かいましたが、子育てが終わると離れていきました。年賀状だけでもお付き合いを続けたかったのですが、返事が来なくなったり、「もうやめましょう」と言われたりして、期限付きの仲で終わっています。習い事で顔を合わせる方とは挨拶を交わす程度で、パート仲間とも勤めている間だけの仲。長く付き合える友人は、どうしたらできるのでしょうか。私が友人としてふさわしくないのでしょうか。
(50代・女性)
A:自分の周りを感謝の目で見つめてみよう
家庭的に恵まれ、さまざまな縁で出会った人たちとも、その時々には仲よく過ごしてこられた様子です。しかし振り返ってみると、親しい付き合いを続けられるような友人がいないことに気づき、少し悩んでおられるようです。
ご主人との関係は良好で、子供たちも自立し、安心できる生活を送っておられるようです。これまで家族を守ることを最優先としてこられたあなたが、ようやく自分自身を見つめ、これからをどのように過ごそうかと考えられる時なのでしょう。ふと自分の周りを見つめると「心を許せる友人がいない」という気持ちが膨らんで、これは若いころから出会ってきた人たちとのかかわり方に、何か足りないところがあったのではないかと考えるに至ったようです。
人生百年時代、まさに第二、第三の人生をどのように生きていくかという折り返し地点でもあります。人は一人では生きていけませんから、家族をはじめ隣人や友人など、親しい関係を求めるのは自然なことです。一人で閉じこもるのではなく、他人の笑顔に出会い、心を許せる友との語らいに喜びを感じながら過ごすことができれば、生きる喜びにつながります。したがって、あなたが家族以外に親しい友を求めようとすること自体は、ほかに大きな悩みや心配事がないという、きわめて恵まれた状況におられることの表れと考えてよいのでしょう。
ただ、そのようなあなたが、あえて「長く付き合える友人が欲しい」と言われることには、少し違和感を覚えます。私には、そうした友人を新しく探す必要はないように思えるからです。心が通い合う親しい関係というものは、たとえ夫婦であっても、日ごろの接し方や語らいの一つ一つを大切に、相手を尊重する心づかいと態度を積み重ねていくことによってできてくるものと考えるからです。今、あなたは、そのような関係を育んでいけそうな友人がいないと感じておられるのでしょうか。
私には、あなたはすでにそのような友人を持っておられるように思えるのです。まずは今のあなたが置かれた状況や、これまでに得られた出会いに、もう一歩深く感謝することから始めてみてください。子育ての途上で出会った友人、習い事やパートで出会った友人、さらには隣人などとの出会いを、もう一度、丁寧に振り返ってみてください。あなたの生き方や考え方に共感し、見守り、支えてくれていた人がそこにいたことに気づかれることでしょう。
その感謝の気持ちを忘れずに、これから出会う一人ひとりに対しても親しみと尊敬の心で接していかれるなら、きっと「すばらしい友に恵まれた」と感じられる日も来ると確信しています。
令和2年6月号
Q:新しいクラスになじめない娘
最近、中学2年生の娘から「新しいクラスになじめない」と、毎日のように聞かされます。娘は明るい性格なのですが、気の合った友人たちとはクラスが分かれてしまい、おとなしく真面目な生徒の多いクラスの中で、遠慮をしながら過ごすのが疲れるようです。いじめがあるわけでもないので、ぜいたくな悩みなのかもしれませんが……。女の子は固定のグループをつくりがちなので、少々心配ではあります。親として、どのように見守ったらよいでしょうか。
(40代・女性)
A:弱みを受けとめるたくましさを育てたい
中学2年生に進級した明るい性格の娘さんが、おとなしく真面目な生徒の多いクラスにうまくなじむことができず、悩んでおられるようです。明るく育ってきたはずの娘さんの思いもよらない悩みに、あなたはどのように受けとめ、かかわったらよいのかと、戸惑いを感じておられるのですね。
天真爛漫に育ってきた娘さんの初めての弱音といってもよいのでしょうか。娘さんにも友達にも非があるわけではないようですが、このまま友達をつくれずに孤立し、人間不信や不登校にでもなったらと案じられるのでしょう。しかしここは、お母さんには先生と上手に連絡を取って、「性格や生活習慣の違った人々との人間関係を学ぶチャンスにする」というプラスの思いを持って受けとめたいものです。
人生の喜びや楽しみは、順調で穏やかな生活環境のもとで味わえるに越したことはないのでしょうが、実は悲しみや苦しみの体験を克服することを通じて、その深い味わいを知ることのほうが多いものです。生活環境も考え方も性格も異なる大勢の人たちと、協力や闘争、喜びや失敗の体験を共にする中で学び合い、自分を確立していくところに真の成長の喜びが味わえるものだと考えるのです。
自分をより大きく育て、仲間と協力して未来を創る。そのためには、より多くの人たちと協力し、支え合っていくことが必要となります。それは、自分とは違った考え方や生き方の人たちともつながっていこうとするたくましさや、相手を信頼する勇気がなくては実現しないでしょう。
お母さんとしては、どのようなアドバイスをしたらよいかと悩まれるでしょうが、ここはあえて早く答えを出そうとはせず、家族や周囲の人たちの意見も参考に、娘さんの悩みに寄り添いながら、他人を否定することなく勇気づけ、成功体験につながるように見守りたいものです。
過干渉や押しつけにならないように、娘さんが友達を避けることなく、自分のことも振り返り、相手を信じて心を開き、お互いの長所や欠点に共感できるような、柔軟でたくましい、温かくて包容力のある強い心の持ち主に育つことを願ってかかわりたいものです。
娘さんの今回の弱音は、親子の絆のしるしです。ピンチはチャンスといわれるように、娘さんもクラスの友達も、寛やかな心の持ち主に成長されるための一里塚となることを祈っています。少し時間をかけても共に学び、成長していく娘さんたちを応援してください。そしていつも明るく、どんな人からも学び合えるたくましさを育むチャンスにしてください。
令和2年5月号
Q:押しつけられてばかりの人生
昔から、日常の些細なことから進学・就職といった大きな問題まで、親をはじめとした上の立場の人たちにすべてのことを決められ、押しつけられてきました。それらは私の希望とは一切かみ合っていませんでした。もちろんやる気はまったく起こらず、いろいろなことを「失敗させられ」ました。「おまえのためを思って」は通用しません。大人になった今でも、いろいろな人から善意の押しつけを受けることがあり、「意地でもそうはしない!」という決意だけを強めています。
(30代・男性)
A:他人のせいにしない自分をめざそう
これまでの30年あまりの人生を振り返ったとき、大小さまざまな判断や決断にいつも上の立場の人たちが干渉して、あなたの考えや思いが無視され、押しつけられてきたことに強い憤りを感じておられるようです。あなたの心中は不平ばかりで、やる気はわかず、失敗したことのほうが多く、被害者意識ばかりが増大しているのは無理もないことと思いつつも、少し案じています。
どのような状況であなたの自由意思が無視されることになったのかは分からないのですが、あなたは長い間、自分の気持ちを押さえつけられながらも、反社会的な道に走ることなく自分を律し、持ちこたえてきたのでしょう。ここでは、そのあなたが今、自分の意志と決断によって自分の人生を歩んでいきたいと強く望んでおられることを後押ししつつ、考えてみたいと思います。
私たちは、自分の思いが他者の力で押さえつけられ、自分の存在が無視されるようなことが続くと、親や周りの人たちを信じることができなくなるばかりか、本来の自分を見失い、自分の人生そのものを傷つけてしまうものです。一人ひとりの人格を尊重し、学び合い、痛みを分かち合って、互いの非を許し合うといった「人間の弱さへの共感」の欠如。世の中で起こる事件の大部分は、そこに原因があるのではないかと感じます。
しかし、人間社会の理不尽さや不合理がまったくなくなることはないでしょうから、この理不尽さの中でもどうにか持ちこたえ、自分の人生を切り拓いていくことは、私たちが生きていくうえでの基本的な課題ともいえましょう。
あなたにも、少し考え方を変えてはどうかと思う点があります。現在のあなたを取り巻くすべての状況を、他人の押しつけや社会の理不尽さのせいだけにしないこと。そして、自分のことは自分で守っていけるだけの生活力と人間力を身につけるように、意識を切り替えてくださることを願っています。
いろいろな小さな善意にも敏感に「押しつけ」を感じ取り、「意地でもそうはしない!」と強く反発されている表現を見ますと、他人の言動に対して少々過度に反応しすぎているように思われます。過去に親や大人たちから受けた過干渉的態度がトラウマとして残り、真の善意と過干渉との見分けがつかなくなり、人間関係を円満にしていきたいという思いまで蝕まれてはいないでしょうか。
他人の考えに振り回されることなく自分の考えを調和させ、自分らしい道を歩むということは、あなたが努力しない限り、実現するものではありません。しかし私は、あなたがその努力を続ける限り、きっと「生きる喜び」を取り戻して、成熟し、自分や他人を好きになれると信じています。
令和2年4月号
Q:友人との「比較」がやめられない
30代後半になりましたが、未婚で、もちろん子供もいません。仕事は非正規のパートで、親と同居しているため、独立もしていません。友人は皆、結婚して子供がいたり、順調にキャリアを積んでいたりして、いわゆる「勝ち組」ばかりです。自分の状況と比較すると悔しさもあり、つい「独身のほうが気楽でよい」などと、友人に対していやみを言ってしまいます。こんな自分を変えることはできるでしょうか。
(30代・女性)
A:人は、うぬぼれるために生まれてきたわけではない
未婚で親と同居、非正規のパートで働いているという状況に、自立・独立しているという実感を持てないでいるようです。したがって、どうも友人に対して引け目を感じ、やせ我慢をしている自分を好きになれず、生き方を変えたいと悩んでおられるのでしょう。
これまでの人生がどのようであったかは存じませんが、あなた自身が今までの生き方を振り返ってみたとき、親や家族との関係、他人や社会との関係で自分がなしてきたことについて、完全とはいえないにしても、その折々に誠実に、精いっぱい歩んできたとすれば、立派に自分の責務を果たしてきたと考えていいのではありませんか。
人は「他人と比較する心」にとらわれると、自分を守りたい、負けたくない、正当化したいという悪循環に陥ります。そして際限なく他人をうらやんだり、ねたんだり、見下したりして、人間に対する見方、考え方がますます惨めになってしまうようです。
地上に生きるあらゆる存在の中で、人間だけが「他者と比較する」という感情や意識、さらには自由意思を授かっています。その感情や意識や自由意思は、自分を成長させ、周囲の人たちと共存するために「他者に学び、自分を省みる」というように前向きに活用する限り、自分の強い味方になります。しかしその反対に、自分を誇示したり、ひがんだり、やせ我慢をしたり、嘘をついたり、自分や他人を傷つけたりという方向に使ってしまうと、心の喜びや充実感を味わうことができなくなり、自分の人間性を下げ、ついには大切ないのちを傷つけてしまうことさえあるのです。
私たちは、他人と比較して他人より優れていることをよしとするために生まれてきたのではありません。自分に与えられた気質や諸能力、また、授かったいのちを生かして、他者との親しい信頼関係の中に奉仕し合うという共生・共存・協力に向かうべく生まれてきたという考えを大切にしたいと考えます。
あなたが今、弱気になって、他人との比較意識に悩まれていることは、一つには「自分の今までの生き方の中で何かに徹底して取り組むことができなかったのは、自助努力が足りなかったからではないか」という反省心の表れなのかもしれません。また、一方では「自分の置かれている場所で、与えられたいのちをもっと輝かせ、自分らしく、無心に自分の道を歩んでいきたい」という心の声と考えてもいいでしょう。
思うようにいかないことの多い人生に、イエスと言うかノーと言うかを決めるのは、他人でも社会でもありません。あなた自身が自分の人生の主役であることを忘れないでください。
令和2年3月号
Q:再婚に踏み切れない
5年前に離婚をした後、結婚相談所の紹介で、先妻を病気で亡くした男性と知り合いました。最近、再婚に向けて相手の家で同居を始めたのですが、前の奥様のことがどうにも気になって仕方がありません。仏壇には毎日手を合わせ、私なりに供養は大切にしているのですが、知人に「大丈夫なの?」と言われるたびに、なんとも言えない気持ちが膨らんでいきます。こんな気持ちのまま再婚をしても、相手にも亡き奥様にも申し訳のないことになると思い、迷うばかりです。
(50代・女性)
A:勇気を出して語り合う機会を
再婚を考えて通い始めた結婚相談所での気の合う男性との出会い。ところが彼の家での同居を始めた後、あなた自身の気持ちの問題として、彼の前の奥様のことが気になって、前向きな思いが浮かばず、再婚にも迷いが生じているようです。
結婚は人生の一大事ですから、いくつになっても慎重になるのは当然です。最近は個人の結婚や離婚についての自由度が高まっているようですが、それぞれの運命を背負った2人が結婚の意志を固め、条件が整って成婚に至るということは、奇跡に近いという認識に変わりはありません。まして再婚となると、より多くの条件に思いをめぐらされることになるでしょう。しかし「苦悩なくして喜び少なし」といわれます。あなたが今回の結婚に迷われるのも大切な意味があってのことだと、前向きに考えたいものです。
知人が何かと気にしながらかけてくれる言葉を軽く流してしまうこともできるのでしょうが、「その言葉に何か真実が含まれているかもしれない」というあなた自身の心の内からの声に、謙虚に耳を傾けることは大切です。あなたが自分の人生を悔いのない、深い人間愛に基づいたものにするための大切な機会であると考えたとしても、決して相手に対して不誠実ということにはならないでしょう。
あなたは彼のことを大切に思い、彼の先妻のことをも祈りながら同居に踏み切ったのですから、素直な気持ちで自分の心配事や身近な人間関係のことなどを彼に伝え、さらにはそれに対する彼の考えを聞くなど、理解し合うことに集中するよい機会と考えます。すべてを語り尽くすことはできないにせよ、彼との今後の人生のためにも心の中にわだかまりを残さず、信頼と尊敬の関係を築けるように努めることです。
心の中の小さな不安や心配がちょっとしたきっかけで膨らんでしまうことは、よくあるものです。特に人生の後半に入る時期に出会った2人が新しい関係を創造するための迷いや苦悩には、大きな意味があるように思えます。
相手のことを大切に思えば思うほど、今までの何十年というお互いの人生の重みを理解し合い、心の喜びやわだかまりを分かち合う時間は必要でしょう。そう考えれば、そのきっかけとなった知人の言葉がけも、感謝の心で受けとめることができるのではないでしょうか。
知人の小さな言葉にも自分自身を振り返ることができるあなたの心の柔軟さは、ぜひ大切にしていただきたいと思います。まだ出会ったばかりの彼のことを大切に思い、それぞれの義務と責任を果たしていくという覚悟と努力の積み重ねのうえに、新しい道が開けていくことを信じます。どうか勇気を出して語り合ってください。
令和2年2月号
Q:「助け合いの精神」を大切にしたい
私自身も高齢になりましたが、近隣の独居老人の方への声かけをはじめ、今でもボランティア活動にいそしんでいます。ところが最近は、訪問しても「放っておいてほしい」と冷たく断られたり、町内で火災があった際も近隣世帯からのお見舞いの話がまとまらなかったりと、ボランティアも難しい世の中になったことを感じています。「助け合いの精神」が忘れられつつある世の中に、やるせなさを感じてしまいます。
(70代・女性)
A:相手の人格を尊重する精神で
隣近所の一人暮らしの方への声かけや支援活動などに励んでいるものの、皆で助け合おうという意識が浸透せず、一人心を痛めておられる様子が伝わってきます。隣近所との温かいお付き合いがあった昔とは様変わりし、人間関係が希薄になってきていることを憂えるあなたの思いには共感します。
都市型の生活の浸透や「個人の自由」が優先される風潮の影響でしょうか。親子や家族の間でも遠慮をし、お互いに許し合い、助け合い、支え合うことが難しくなっているようです。まして他人に対し、好意よりも警戒感を抱きつつ接する人が増えるのは無理もないことでしょう。自分の内面を見られたくはない、懸命に生きている自分をさらけ出せるほど強くもなければ親しい人でもないということになると、どうしても「あまり他人とかかわりたくはない」と思ってしまう気持ちも分かるような気がします。
とはいえ、いざというときのことを考えると、行政などの公の力に期待するのは限界があります。個人個人で置かれた状況も異なれば必要とする支援も異なるわけですから、民間のボランティアの協力なしには対応しきれません。やはり助け合いの精神は不可欠でしょう。
しかし、助け合いやボランティアの精神の必要性を説くだけでは、この問題は解決しないようです。私たちは個人の自由を尊重するだけでなく、もっと「家庭の一員として、国家の一員としての自分の責任」についての認識を深めていく必要があるのではないでしょうか。
個々人の「自分らしい生き方」とは、もちろん自分自身でつくるものです。まずは個人が精いっぱいの努力をしながらも、自分一人の力で乗り切れない事態に直面している人に対しては周囲の皆で手を差し伸べる。そうした場合も、さまざまな試練を乗り越えて今ここにいる代理不可能な一人ひとりに対して、尊敬と感謝とねぎらいをもって接したいものです。
付き合いが悪いからとか、寂しそうにしているからとか、一人で住んでいるからといった表面的なことや、その場の気分でかかわり方を決めるのではありません。同じ時代に生き、そこでのさまざまな課題を共に解決していこうとする仲間として、敬意を持って接するのです。
孤独のすべてが悪いわけではありません。ただ、人は病や死という孤独に立ち向かうべく、お互いを支え合うのだという自覚のうえにボランティアの精神を充実させる必要がありましょう。一人ひとりへの愛情と尊敬を抱きつつ助け合うこと、それは相手の人格と人生全体を肯定し、「弱い傷だらけの自分」をさらしているお互いへの共感のうえに成り立つものではないかと感じるのですが、いかがでしょうか。どうか強い心で仲間をつくっていってください。
令和2年1月号
Q:引きこもりの息子とどう向き合うか
40代後半の息子と私たち夫婦の3人暮らしです。息子は大学卒業後、なかなか職場に恵まれず、転職を繰り返すうちに挫折してしまったようで、近年は仕事もせず、引きこもりのような状態になっています。暴力を振るうことはないまでも、イライラすると大きな声を出すことがあり、どのように接したらよいか分かりません。夫も80に手が届く年齢で、今後のことを思うと、途方に暮れるばかりです。
(70代・女性)
A:社会のケアの力を借りて
40代後半の息子さんが引きこもりの状態で、同居の自分たちも高齢になり、どのように接していけばよいかと途方に暮れる気持ちはよく分かります。
今日では子供から大人まで、うつ病や引きこもりに悩んでいる方が多くおられ、それが日本の活力や労働力不足につながっているともいわれます。物質的には豊かな国と思える日本で暮らしていながら、なんらかの原因で心が折れ、生きる目標を見失い、漠然とした時代の空気の中で自分を取り戻すきっかけが見つけられない。挫折の原因も多様であいまいなだけに、特定の解決法があるわけでもなく、行政や社会福祉関係者が対応を模索しているというのが実情のようです。
「本人の考え方や気持ちが変われば……」といわれることもありますが、事はそれほど簡単ではないようです。対応する専門家も時間をかけ、一歩家の外に出させることにも粘り強く、何か月も試行錯誤を繰り返しつつ取り組んでいるようです。当人がなんとかしたいと思っていても、思うようにいかず、長引けば長引くほど状況が悪化し、改善が難しくなっているようです。
人の意識や行動が活性化されるには、愛情というプラスのエネルギーが心に蓄積される必要があります。当人が自分で心を開こうとするきっかけが得られるような機会を、慎重に粘り強くつくっていくというケア以外に道はないのが現状でしょう。ご両親には、ご子息の負担にならないように見守り、共に粘り強く生きることを心がけるとともに、自分自身の心のケアのためにも、同じ悩みを抱える仲間との語らいの場に参加されることをお勧めします。
この状態が長く続いているようですから、これまでにも専門の医師やカウンセラーと相談され、対処してこられたと思われます。たとえ当人が専門医にかかることを拒む場合でも、両親が近況報告などに心がけ、相談し、アドバイスをもらうなど、親としてのあり方や将来への対策などについて考える機会をつくっておくことが大切でしょう。
民間の機関でも、当人の働き方や財産管理などを含め、さまざまな分野の専門家の協力を得て相談に応じるという体制づくりが進んでいるようです。今回のような事例には、家族でサポートしていくという気持ちは大切ですが、家族の力だけでできることには限界があると心得ましょう。そして、このような明確な答えを出しにくい問題に対する対策は、将来的に起こりうる事態に対し、いかに自分たちの考えや態度を定めておくかが大切であって、決して過度な不安を抱いて右往左往することではないことを心したいものです。
1日1日、厳しい状況の中にも大らかに生きたいものです。
令和元年12月号
Q:現状を前向きに受けとめるには
同居の義母と自閉症の長男、近くに住む私の両親の暮らしを夫と2人で長年支えてきましたが、最近、夫が進行性の難病と診断されました。これまで必要に応じて遠方に住むきょうだいや独立した子供にも協力を求めてきましたし、介護サービスもありがたく利用させていただいていますが、サービスの利用は経済的に限度があり、自分の体力にも不安があります。感謝の気持ちで日々を送るように努力はしていますが、現状を前向きに受けとめるにはどうしたらよいのでしょうか。
(60代・女性)
A:今こそ生きる意味を考えるとき
高齢の両親の介護に加え、自閉症の長男、さらには協力者であったご主人の難病と、あなたの肩にかかっている責務の大きさは、よく分かります。これまでもきょうだいや子供たちと相談し、協力を求めてきたということですから、介護サービスの利用者負担などに関しても協力を得ておられるのでしょう。
しかし、皆の前向きな協力が得られても、ご主人の病気により発生した孤立感とこの先への不安は大きなものでしょう。どこまで耐えられるかといった体力や気力についての不安、経済上の不安、さらには日常生活の中で起きる感情のやりどころのなさなども、一番近くにいて分かち合ってきたご主人です。寂しく弱気になるあなたの気持ちも分かります。
人生の後半に向けて、現状が好転していく可能性が少ない状況の中で、どのように自分の心を前向きにさせるか、どこに目標を定めて生きていけばよいのか。ここはまさに自分の生きていく原点を問われる窮地に立たされているように感じます。
ここはあなたの踏ん張りどころ。あらためて自分の、そして夫との人生にどのような意味を与えるかを考えるときです。あなたは父や母、夫や子供と、どのような家庭を実現しようと考えてこられましたか。生活信条はなんでしたか。父や母から受け継いだこと、「このような考えを大切にして生きていきなさいよ」と教えられたことはありませんか。
私は両親から、学ぶことの大切さを教えられました。偉人に学ぶ、先人に学ぶ、他人に学ぶ等々、学ぶ対象も学ぶ領域も学ぶときも、限りなく広く無限です。新しい環境に出会うたびに新しい自分に挑戦し、学んでいくものだと教えられました。
人生には、いくつになっても新しい課題が起こってくるものです。そうした諸課題を、素直に謙虚に受けとめて生きていくところに、人間の尊さを感じています。
現実に起きてくる喜ばしいことやうれしくないことに、一人で有頂天になったり落ち込んだりすることなく、素直に受けとめる。すべてに感謝はできないまでも、他人とのつながりの中に、自分にできる最大限の義務を果たす。そんな覚悟ができればいいなと考えます。
あなたが今の現実にどのような意味を与えるかは、あなたの意志と決断にかかっています。他人にはつらい現状に見えても、自分と家族の尊厳を守るために、強く美しく生きていくことを心がけてください。きっとあなたの人生は無意味なものではなく、あなたの周りの人にも、生きることの尊さや喜びを伝えることになるでしょう。今与えられている現状は、自分が蓄えてきた叡智と強い心を発揮する最善の機会なのだと受けとめてくださることを祈っています。
令和元年11月号
Q:隣家との関係に悩む
隣家の老夫婦との関係に長年悩まされてきました。そのお宅では猫を放し飼いにされているようで、糞尿に困っていることをお伝えしたところ、敵視されるようになってしまいました。年齢を重ねるほどにひどくなってきているようで、いやがらせのような行為を受けることもあります。仕返しをしたいという思いはまったくなく、人の心の痛みを知っていただきたいという思いだけなのですが、そう願うのはいけないことでしょうか。
(50代・女性)
A:誠意をもってもう一度
隣家の老夫婦とのトラブルに心を痛めておられるようです。猫の放し飼いにまつわる問題は、動物への愛着の持ちようによって感じ方が変わるものでしょうが、あなたが困っていることを隣家の老夫婦には理解してもらえず、長年悩んでこられた気持ちもよく分かります。
少子高齢化が進む昨今、動物との同居を心のよりどころにしている方もおられることでしょう。一方では、自分で動物を飼おうとは思わないし、飼っている人に対しても「他人に迷惑をかけることは御免だ」と、自己管理を求める方もおられます。動物を飼う・飼わないは、好き嫌いの感情の問題であるだけに、感覚的に対立しやすい一面もありそうです。
冷静に考えてみると、お互いの生活空間を侵すことなく、助け合いながら、安心と快適さを分かち合えるような付き合いを、誰もが望んでいるはずです。しかし今、都市化や核家族化が進む中で、隣人への不信、他人への敵対的感情、自己正当化というマイナス感情が増大して、相手の気持ちや立場を思いやり、許し合うという心のゆとりが失われつつあるようです。あなたにもその影響が及んでいないか、今一度、見つめていただきたいと願っています。
一人ひとりが高齢になったときのことを考えても、隣近所との親しいお付き合いや助け合いは、お互いに安心と喜びを実現していくうえで不可欠ではないでしょうか。
ここはあなたに、より賢明でより深い人間性を発揮していただきたいと念います。心の痛みを分かってもらいたいというあなたの思いは理解できますが、隣家の老夫婦の側に心の余裕がないと思われる現状では、あなたが「正義の立場」にとどまる限り、お互いに傷つけ合うばかりです。
正しいと思える側が一歩引いて道を譲る。健康な人が弱った方のお手伝いをする。分かっている人が相手の足りないところを補い、カバーする……。そうしたことの大切さは、お互いに分かっていても、実行するには大きな勇気が必要です。
世の中が物質的には豊かで便利になっても、社会に潤いをもたらすのは、やはり心の痛みや喜びを共有できる家族や隣人とのつながりです。
できれば、あなたがもう一度歩み寄って、相手を非難する心ではなく、「自分の気持ちをうまく伝えられずに、今日まで不快な気持ちを味わわせてしまった」という思いで語りかけることです。相手がどう受けとめるかではなく、まず、あなた自身が強く美しい、清い心で。その心がけと実行が、隣人の心をも美しくしていくのだと信じています。
令和元年10月号
Q:子育てと家事、どう向き合うか
出張が多く多忙な夫と1歳の娘との3人暮らしです。先日、夫の母親が自宅へ遊びに来た際、家の中が片付いていないことを指摘されました。私も反省し、もう少しきれいにしようと思ったのですが、いざ掃除を始めると、娘は片付けたそばから散らかしていくので、思うようにはかどりません。仕方なくベビーベッドに入れたところ号泣し、やがて泣き疲れて寝てしまいました。娘の心を傷つけているのではないかと思い、自己嫌悪に陥っています。
(20代・女性)
A:子育ては自分育てです
多忙な夫と1歳の子供との3人暮らしで、日々子育てや家事に奮闘されている様子が伝わってきます。また、様子をうかがいに来られた夫のお母さんの指摘に反省し、努力される素直さが感じられます。掃除中も思うようにいかない娘のふるまいに心を痛め、泣かせてしまったことで自己嫌悪に陥るあなたは、優しい性格のようです。
子育てというものは、誰が何度経験しても、その都度変わる子供の反応には完璧に対応できるものではありません。まずは深刻になりすぎないように心がけましょう。
家庭の状況、子供の様子、家族の協力、当事者の性格など事情はさまざまですが、1人で子育てを担わなければならないとすれば、たいていのお母さんはパニックに陥ることでしょう。したがって、自分が失敗しても温かく見守ってくれる家族や周囲の存在は重要です。夫やお母さんを味方につけ、明るく朗らかに、なんでも相談できる和らいだ関係をつくっていきたいものです。
何事によらず、人は「自分1人で取り組んでいる」と感じるときは、孤独で被害者的な感情に陥りやすいものです。夫のお母さんの指摘も、素直に受けとめることは大切ですが、「自分の気にしているところを指摘された」と反省するだけでなく、明るく感謝しつつ、お母さんとの信頼関係をつくるように心がけていくことをお勧めします。
私が大切にしたいと考えることは、あなたが少々の失敗をしても、あなたの子育てへの努力を見守り、受け入れ、励ましてくれる夫や家族との好意的な関係を築き、喜びと感謝の言葉をたくさん発信できるような「自分育て」をすることです。
子育ての中で、自分の心にわいてくる思いには、愛情や「健やかに育つように」という祈りばかりでなく、言うことを聞いてくれず、意に添わない子供のふるまいに、いら立ったり、反省したりの繰り返しでしょう。その自然な感情は肯定的に受けとめましょう。そして一時の感情から子供に対して声を荒げたり、危害を加えるといった考えや行為に走らない限り、母親としての対応に自信を持って、温かくも厳しく育んでいかれればいいのではないかと考えます。
子育ての専門書やアドバイスは参考にしながらも、私が一番大切に思うことは、子育てに奮闘する母親が孤立することなく、精神的に安心と安定が感じられるような家庭をつくることです。そのためには、まず夫婦の間に信頼と尊敬と愛情を育むことが、何よりも大切なことです。忙しい夫や母親をも味方につける自分になることは、子育てを後押ししてもらうためだけでなく、あなた自身の「自分育て」につながることになると考えてみてください。
令和元年9月号
Q:見捨てられることへの不安
子供のころから「いい子でいなければ愛してもらえない」といった思いが強く、ずっと「自分は見捨てられるのではないか」という不安を抱えてきました。そのため、友人や恋人との距離感もうまくつかむことができず、メールの返信がすぐに来ないだけで不安になったり、相手の意に沿えるようにと必要以上に頑張ったりしてしまいます。この不安を、どうすれば克服できるでしょうか。
(30代・女性)
A:強い自分に挑戦してください
子供のころから「いい子でいなければ見捨てられるのではないか」という不安を抱えてきたために、日常の会話やメールのやり取りにも神経をすり減らしているようです。そんな自分を変えたいと願っておられる気持ちが伝わってきます。
まず、あなたが抱かれている気持ちは、素直に幼少期を送ってきた人がたいてい一度は通らねばならない道だと理解しましょう。人が成長していくうえで、親や年長者の意見を素直に受け入れることは、大切な生活態度と考えるからです。
一般に「いい子でいなければ」という思いは、他人から認められたいという承認の欲求に基づくもので、大なり小なり誰の意識の中にもあり、人間の向上心につながっています。それは尊重される人間になりたいとか、他人や社会の役に立てるようにという気持ちの原動力だからです。しかし、幼少期のいい子であろうとする努力が適切に評価されず、親や他人から無視されたり拒否されたりすると、無意識的に「もっといい子にならなくては」と思い、相手からの評価に過度に反応して、自分を見失ってしまうのです。
人は年齢とともに「他人は他人、私は私」と、一人ひとりの考え方や立場の違いを客観的に理解できるようになり、「時には『いい子』でなくてもいい」ということも学ぶのです。とはいえ、人は社会的動物ですから、たいていの場合は相手に認められ、好感を待たれるようにふるまっているわけで、その思いの強さは人それぞれです。
ここで、あなたの意識を変える道を考えてみましょう。まず「いい子でいなければ」という意識の背後にある、「他人に認められたい」という気持ちを見つめ直しましょう。その気持ちを自覚しながらも、相手の評価を気にせずに、主体性と責任感を持って生きていく意志を固めるのです。中国の古典に「徳は孤ならず」(『論語』)とあります。人として正しい生き方に徹すれば、必ず理解者が現れると考えてください。他人の評価を気にして生きるのではなく「自分の人生の主役は自分だ」と考えることです。
次に「見捨てられたらどうしよう」という意識を克服しましょう。他人に見捨てられることは、確かにつらいことです。しかし人生は味わい深いもので、思いがけず見捨てられてしまうこともあるかもしれませんが、「捨てる神あれば拾う神あり」で、試練の中でも持ちこたえていると、誰かが見守っているものです。ですから、他人に期待するのではなく、「自分は人を見捨てない」という思いを胸に、失敗を恐れず、明るく強い気持ちで生きるのです。
考え方や気持ちを急に変えるのは難しいことですが、人生は自分への挑戦です。どうか一日一日を大切に。
令和元年8月号
Q:「善意の意見」が煩わしい
家電の買い換えを検討していた際、その方面に詳しい友人に何げなく話をしたところ、あれこれと新製品の情報をくれるようになりました。結局、友人の勧めるものは自分の用途に合わず、別のものを購入したのですが、「これは性能がよくないよ」「あっちのほうがよかったのに」と何度も言われて不快な気持ちになり、最近はその友人と少し距離を置いています。善意の意見とはいえ、あまり押しつけがましいのもどうかと思うのですが。
(30代・男性)
A:友人を真の友にできるか
友人に何げなく相談したところ、押しつけと感じるほどのアドバイスを受けて困り果て、少し距離を置いて付き合うしかないと考えられたようです。でも、何かすっきりしないところがあるように感じられます。
私たちは「自分の思いと相手の思いが少し違っているな」と感じるような場面にしばしば出くわします。たいていは曖昧なまま流してしまうのですが、今回のように気になることもあるでしょう。あなたは友人のことを「善意の押しつけ」と受けとめておられるようですが、友人はそうは思っていないのかもしれません。自分の趣味や得意としている分野のこととなると、相手の意向や思いを気にかけることなく自分の思いをまくし立ててしまうというのは、よくあることだからです。
あなたは友人の熱心な態度を押しつけと感じ、自分の気持ちを伝えもせずに縁を絶とうとしていることに、少し後味の悪さを感じておられるのではありませんか。あなたにも友人と同じように「この人にはなんでも語れる。でも、あの人には語れない」「あの人に失礼なことはできないが、この人には多少押しつけがましい態度でも許される」と感じる関係があるのを思い起こされるでしょう。
人間の好悪・善悪の感じ方や考え方は、その人の個性のようなものですから、そのこと自体を頭ごなしに否定できないということが分かっていても、私たちはどうしても自分の考えを正当化する傾向があります。だからこそ、「親しき仲にも礼儀あり」という教えが大切にされてきたのでしょう。しかしあなたの友人は、自分の思いを率直に語るのが当たり前の日常生活に慣れておられるのでしょう。
私たちは「親しい友人だから」となると、相手も自分と同じようにふるまってくれるものと期待して、イエス・ノーをはっきり言うことを躊躇してしまうところがあります。自分の意見をはっきり言って相手と対立するよりは、相手と距離を置いて、結局離別してしまうこともあるようです。
しかし、どんな人も尊重されるべき、かけがえのない存在です。好いところもあれば嫌なところもあるお互いです。相手に自分の心を察してくれることを期待するだけでは、うまくいきません。相手を思いやる心づかいは大切にしながら、相手の善意の言動にも迷惑だと感じたら、相手を傷つけることなくその好意をお断りできるだけの表現力を身につける必要があると考えます。
さまざまな人間関係の中で自分の心にわいてくるさまざまな感情を美しく表現する力をつけることは、私たちの生涯を豊かにします。これを機に、友情が深まることを祈っています。
令和元年7月号
Q:せっかくの仲間なのに
長年所属しているボランティアサークルで、ちょっとした仲間の言動に心を痛めているという話を聞くことが多くなりました。第三者の立場で見ていると、多少のことは目をつぶったり、聞き流したりしてもいいのではないかとも思うのですが……。もちろん相性もあると思いますが、仲間同士で傷つけ合っているのを見ると、とても残念に思います。何かいいアドバイスはないでしょうか。
(60代・女性)
A:痛みを成長の機会に
私たちの生活は、人間関係に尽きるといってもいいかもしれません。その人間関係を円滑に運ぶことは難しく、出会う人すべてと親しく交わることができる人は、きわめて稀でしょう。
しかし、人間関係の難しさはまことに微妙で、複雑で、面倒であるからこそ、そこに「人生の喜怒哀楽」と「人間としての成長」という妙味があるともいえましょう。
ボランティアサークルの仲間同士、同じ思いで社会貢献をめざしているはずなのに、意見の対立がエスカレートし、感情的な対立にまで発展するというのは、なんとも残念なことです。同じように、身近な家庭の夫婦・親子問題から、隣近所のお付き合い、学校や職場における諸問題、さらには国家間の平和実現への苦闘に至るまで、私たちは絶えず闘争の中にいるかに見えます。
私たちは、自分を取り巻く世界の中で、経験や知識、さらには立場・役割の相違によって、さまざまな思いや考えを抱きつつ過ごしています。「夫婦だから、同士だから」と気を許していても、相手は自分と同じではありません。したがって、異なる意見にも耳を傾けていこうとする寛大さ、時に対立することがあっても建設的に合意形成に努めようとする理性と感性のバランス、共に社会的役割を果たそうとする責任意識が成熟していなければ、人間関係はすぐに壊れてしまいます。
私たちは自分の考えや意見にこだわり、自分を絶対化してしまうところがありますが、そこで悲しみや苦悩・痛みを味わって、その都度反省に反省を繰り返すことで、他の人々との「共生と共感」に導かれ、生かされている存在であるということに気づいていくようです。
その対立が軽い感情的な行き違いだけで、サークルの活動に大きな影響がないとすれば、当事者同士の問題として、立ち入らずに見守っておくことも大切でしょう。お互いが気づくまで静観し、待つというのも思いやりです。しかし、当事者同士の問題を超えた大きな対立に発展しそうな場合には、同じメンバーとして「必ず道はある」との強い信念をもって、正義と思いやりの立場から、本音で、しかしお互いの心に傷を残さないように、粘り強く解決に導く努力が必要でしょう。
「他人の振り見てわが振り直せ」ということわざがありますが、人は他人の態度・ふるまいを見て、自分の言動や感情に冷静な反省を加え、成長していくものです。人間関係に尊敬と信頼の精神が流れていないと、人は自分にとらわれてしまうようです。他人のことを自分のことのように大切に、他人の邪を破らずに誠意をもって接する、これが自他の成長と共存の原点のように思えるのです。
令和元年6月号
Q:父母亡き後の供養と親戚付き合い
自分自身も高齢の域になり、親祖先を思うことが多くなりました。自分と夫の実家には、毎回のお墓参りはかなわないまでも、父母の命日やお盆のお供えを欠かしたことはありません。そうした際、本家の供養の心貧しさに悲しくなることがあります。両家ともお金に困っているわけではないので、理解してもらえるように心を砕いてきましたが、拒否され、父母亡き後は疎遠になっています。今後、どのように付き合っていけばよいでしょうか。
(70代・女性)
A:粘り強く本家を立てて
高齢になるにつれ、自分たちのいのちの尊さや先行きについて考えることが多くなるからでしょうか、おのずと親祖先を思うことが多くなりますね。あなた方夫婦が健康で、それぞれの父母の命日やお盆に供養ができる状態にあるというのは、ありがたいことです。まずは今日までの人生すべてに感謝したいですね。
そして父母亡き後、兄弟姉妹とうまく心が通っていないことについては、まずあなた方が「実家のきょうだいに安心と感謝とねぎらいを届ける気持ちが足りなかったのではないか」と振り返ってみてください。「兄弟常に合わず、慈悲を兄弟となす」という教えがありますが、それは「血の通ったきょうだいでも、相手への感謝と思いやりがなければ、お互いの心はバラバラになるものだ」という戒めのようです。
精神的なゆとりがないと、他人の忠告にも快く耳を貸すことができず、結果的には「放っておいてくれ」といった否定的な気持ちになるものです。あなた方は、今まで幾度となく心を尽くして自分たちの気持ちを伝えてこられたのでしょうが、相手の心には通じていないようです。あなた方の心に「相手に対する要求心」があるとすれば、その気持ちを浄化されるように、そして相手の心に安心が生まれるように工夫したいものです。
あなた方の供養の気持ちと、親戚付き合いを円滑にしていきたいという気持ちは、とても大切なことです。将来、あなた方自身のお墓をどのようにしていくかという問題も含めて、親や祖先が喜んでくれるように、本家のきょうだいに相談するチャンスが来ていると考えてはいかがでしょうか。
実家との距離が遠ければ、自分たちで独自に考えることにもなるのでしょうが、その場合でも本家と相談して進めていくくらいの尊重心が大切でしょう。供養に対する意識や考え方の違いにこだわるのではなく、本家の苦労を思いやり、その立場を尊重しつつ、自分たちの墓地や今後の付き合いについても丁寧に話し合い、理解し合うように努めてください。
昨今は葬儀や墓地など、祖先の祀り方に関しては多種多様で、私たちの思いを先取りした業者が工夫を凝らし、ニーズに合わせた方法が提示されている時代です。業者に振り回されるのではなく、お寺の住職さんとも相談し、このことを通して、きょうだいの心が親しく一つになれるように進めてください。
お墓は先祖を祀るためにあるのですが、それ以上に、同じ先祖につながる子供たちを感謝の心でつないでくれるものでもあります。家族の「いのちのつながり」を実感させてくれる神聖な場所として共有できれば、きっと喜びの多い家族の文化ができるのではないでしょうか。どうか、きょうだい仲よく。
令和元年5月号