心のしおり

毎号のニューモラルのテーマについて、わかりやすくまとめています。

学習の資料としてもご活用ください。

 

【No.617】勇気ってなんだろう

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 昔々、戦国時代のお話です。塚原卜伝という剣術の達人がいました。

 あるとき、卜伝の弟子の一人が、道端につながれた馬の後ろを通り過ぎようとしました。すると突然、馬が脚を跳ね上げます。弟子はひらりと身をかわして、これをよけました。

 周りで見ていた人たちは、口々にこの弟子を褒めたてました。ところが師匠である卜伝だけは、弟子を褒めなかったのです。

 みんなの称賛を受けて得意になっていた弟子は、そんな師匠の反応がおもしろくありません。そのとき、こんなことを思いつきました。

“師匠自身の身のこなしは、どんなものだろうか。……よし、ちょっと試してみようじゃないか”

 弟子は卜伝が通る道に先回りして、そこにわざわざ馬をつないでおきました。すると卜伝は、馬を避けるように大回りをして、その場を通り過ぎました。結果として、馬が跳ねることもなかったのです。

 期待外れの師匠の行動にがっかりした弟子が訳を尋ねると、卜伝はこう言いました。

「そもそも馬に近づくということ自体が危険なことではないか。それを知っていてわざわざ近づくのは『無益の危険』というものだ。道理をわきまえた者のすることではない」と(参考=廣池千九郎著『新編小学修身用書』巻之一、復刻版はモラロジー研究所刊)。

 勇猛であるはずの「剣術の達人」の、思いもよらない行動。これは「勇気」ということについて、考えさせられるエピソードではないでしょうか。「勇気」を発揮すべきなのは、どういった場面か。どんな場合に、何に恐れることなく立ち向かっていくのか。それは、自分自身の「良心」に基づいて判断しなければならないことなのです。

 中国古典の『論語』には、こんな一節があります。

「仁者は必ず勇あり」

 深い思いやりの心の持ち主には、必ず勇気が備わっている――誰かのためを思い、率先して行動を起こすことができる人こそ、本当の「勇気ある人」といえるのではないでしょうか。

 それは必ずしも難しいことをしなければならないわけではありません。手始めとして、身近な人に安心してもらえるようなことを、相手の立場になって考え、少しの勇気を出して実践していきませんか。「温かい言葉をかけること」でもいいかもしれません。「笑顔一つ」「和やかなまなざし一つ」を相手に向けるだけでもいいかもしれません。日常のちょっとした場面での思いやりの実践は、少し意識することで、いつでも、どこでも、誰にでもできるのではないでしょうか。

 思いやりの心は、意識してはたらかせるほどに大きくなり、勇気も奮い起こすほどに強くなっていきます。一人ひとりが小さな勇気を奮い起こして、思いやりの実践を積み重ねていったなら、私たちを取り巻く社会はよりよいものになっていくことでしょう。

令和3年1月号

 

【No.616】「みんな同じ」は当たり前?

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 ハワイ出身のアメリカ人であるルースさんが、日本企業に就職後、初めてのクリスマスを迎えたときのお話です。

 クリスチャンであるルースさんにとって、12月25日は特別な日です。アメリカにいたころは、教会に行ってお祈りをして、家族と一緒に過ごすのが普通でした。ところが、この年のクリスマスは平日の出勤日。「元日に会社へ行くような気分だった」と振り返るルースさんですが、当時は自分の気持ちを周囲に伝えることができませんでした。

 勇気を振り絞って「来年のクリスマスは、やっぱり礼拝に行きたい」と上司に伝えたのは、だいぶ時間がたってからでした。すると上司は「いいよ。どうしてもっと早く言ってくれなかったの?」と、意外なほどにあっさりと受け入れてくれたというのです。

 この体験を通じて「伝える」ということの大切さを実感したルースさん。それから30年を経た今、「国際化の時代に大切なことは『変わること』ではなく『説明すること』ではないか」として、著書の中で次のように述べています。

「他国の文化に接したとき、相手を尊重するのは大切なことですが、それは自分自身の中の大切な何かを抑えて相手に合わせるということではありません。(中略)

 長年日本で過ごしてきた私にとって、日本は母国と同じく大切にしたい国の一つです。日本の着物も大好きで、結婚式などには和装で参列することもありますが、それは着物を身にまとっただけのことで、中身が日本人になるわけではありません。アメリカ人としての私のアイデンティティーはそのままに、相手のよいところに学んで、付け加えることができるものは付け加え、より豊かな人間になっていく――それこそが本当のグローバル化ではないでしょうか」

 現在、「アメリカ人としての自分」は変わらず大切にしながら、「日本が世界に誇れる文化」を広く紹介する活動に取り組むルースさん。海外から来日した人が、銀行で手続きをするときなどに「日本にはルールが多すぎる」?と不満をもらした場合は、こんなふうに説明するそうです。

「確かに規定は多いように感じるかもしれないけれど、そういう小さなものの積み重ねで、社会がうまく回っているんですよ。すべてのことはつながっていて、日本は“みんなで考えたルール”を“みんなで一緒に守れる国”だから、電車やバスも時刻表の通りに到着するんです」と(参考=『世界に輝くヤマトナデシコの底力』モラロジー研究所刊)。

 異文化理解の例に限らず、「自分と異なる価値観を持つ人」に出会ったとき、やみくもに相手を否定するという態度は、決してよい結果を生みません。また、うわべだけ相手に合わせたとしても、心の中にわだかまりがあると、人間関係がぎくしゃくしてしまうでしょう。とはいえ「衝突を避けたいから、深くかかわらないようにする」という態度を貫くのも寂しいことです。

 忘れてはならないのは、自分を大切にするのと同じように相手のことも尊重して、真摯に向き合おうとする姿勢です。そのためにも、まずはお互いの考えを冷静に話し合い、「違い」は「違い」として、そのまま受けとめることが大切ではないでしょうか。

 それは問題を円満に解決し、よりよい人間関係を結ぶためだけではありません。自分自身の物の見方や考え方を広げ、人間的に成長していくためにも大切なことなのです。

令和2年12月号

【No.615】「後」をよくする心がけ

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 作家の幸田露伴(1867~1947)はその著書『努力論』の中で、「惜福・分福・植福」という生き方を説いています。

 惜福とは、文字どおり福を惜しむことで、後々のことも考えて、これを使い尽くしてしまわないことです。分福とは、惜福よりも一歩進んで、自分の得た福を他人に分かち与えることです。そして植福とは、自分の持っている福、つまり自分の力や知識・経験などを用いて、世の中の福利を増進するために貢献することです。

 このことを、露伴はリンゴの木にたとえ、次のように説明しています。

 家の庭に、大きなリンゴの木があったとします。その木が毎年おいしい実をつけたなら、幸せが感じられるでしょう。その木をよく管理し、将来にわたって実を収穫できるように保つことが惜福です。また、立派な実ができたとき、独り占めすることなく、身近な人たちに分けることが分福です。

 そして植福とは、リンゴの種をまいたり苗木を植えたりすることで、新しい木を育てることです。また、虫害で枯れかかっている木があるとしたら、適切な手当てをすることも植福といえます。

 一株の木であっても、それは多くの実を結ぶものです。また、そうした果実の一つから複数の木々が育つなら、将来的にはどれほどの福を生じることになるでしょうか。その実を味わうのが自分自身であったにせよ、ほかの誰かであったにせよ、そこに大きな幸せが生まれることは間違いないでしょう。

 人類社会とは、こうした先人たちの植福の精神と作業との積み重ねによって発展してきたものだということを、露伴は述べています。そうした人類社会の歴史に連なる一人として、今、私たちには何ができるのでしょうか。

 みずからの仕事や役割を誠実に果たして世の中に貢献することは、その一つといえます。また、目の前の困っている人や苦しい思いをしている人に対する、小さな思いやりの実践。その行為自体はどんなに些細なことに思えたとしても、決して「取るに足りないこと」ではありません。思いやりの心こそが人間の人間たるゆえんであり、社会が今日のように発展を遂げた原動力ともいえるのだということを、露伴は述べているのです。

 今、世の中が抱えているさまざまな課題を思うとき、感染症の問題も含めて、すぐに解決できるものばかりではないかもしれません。「完全な解決」という形で後をよくすることが容易ではないとしても、「自分自身の生き方は、後世にも影響を及ぼすものだ」という点は心に留めておかなければならないでしょう。

 私たちは先人たちの歩みに思いを致し、次の世代にも「よりよい世の中」を残すことができるように努めたいものです。そこには思いやりの心が欠かせません。自分自身を大切に思うのと同じように、周囲の人たちのことを思い、また、後世の人のことを思う――一人ひとりのそうした心がけによって安心のある社会が実現し、はるかな未来に向けて「後」をよくしていくことができるのではないでしょうか。

令和2年11月号

【No.614】思いがけない出来事

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 人生の途上で直面する、思いがけない出来事――そこには、よいことも悪いこともあるでしょう。よい出来事であれば喜ばしいことですが、うれしくない出来事も起こるのが人生です。

 それが自分の過失によって起こった問題であれば、“次からは気をつけよう”というように反省もできるでしょうし、改善の糸口もつかみやすいかもしれません。ところが、時には「まさかの不運」としか思えないような出来事も起こります。また、事態の収束が容易ではなく、長く苦しまなければならない場合もあるのではないでしょうか。

 そんなときは“なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか”と嘆いたり、自暴自棄に陥ったりするかもしれません。“こんなことになったのは、あの人のせいだ”“置かれた環境が悪いからだ”というように、自分以外の何者かに責任を求めたくなることもあるでしょう。しかし、そうしたことを考えれば考えるほど不満が募り、心が重くなっていきます。また、怒りに任せて他人に非難や攻撃を加えたりすれば、事態をますます悪化させることにもなりかねません。

 いずれにしても、私たちは時間をさかのぼって人生をやり直すことはできません。そして、この境遇を誰かに代わってもらうこともできないのです。その自覚に立てば、「今の自分にできること」を考えざるをえないのではないでしょうか。「問題に直面した」という事実が変えられないのであれば、愚痴や文句を言うのではなく、少しでも前向きな気持ちでその出来事を受けとめ、「今の自分にできること」に努力したいものです。

 大切なことは、個々の問題への具体的な対処法だけではないはずです。例えば自分自身の目標を見失うことなく、一日一日を大切に過ごそうとする姿勢。ひとたび自分の身に降りかかったなら、いかなる事態をも「自分自身の問題」として正面から受けとめようとする姿勢。すべての出来事を、いつの日か、なんらかの形で「自分の人生にとって意味のあるもの」にできるようにと努力する姿勢……。日々の心がけによってそうした姿勢を培うことができたなら、突如として降りかかる困難にも押しつぶされることなく、人生をしっかりと歩んでいくことができるのではないでしょうか。

 

令和2年10月号

【No.613】思いを伝える

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 私たちは家庭や学校、職場などの日常生活の場で、目の前にいる相手に自分の思いや考えを伝えるために言葉を投げかけ、相手からも同じように言葉を投げかけられています。

 一方、言葉は人を傷つけたり怒らせたりするなど、トラブルの原因になることもあります。「あんなこと、言わなければよかった」「あの場面では、こう言ったほうがよかった」と、後悔することもあるでしょう。また、親しい人との間でも、思いが正確に伝わらないことはあるものです。慎重に言葉を選んで伝えたつもりでも、相手には別の意味に受け取られる場合がないとも限りません。こうしたことから誤解が生まれ、人間関係がぎくしゃくすることもあるでしょう。

「以心伝心」という言葉がありますが、日本では「察すること」や「気を利かせること」が美徳とされてきました。そのためか、私たちはコミュニケーションを取る際も、言葉以上に相手の表情やしぐさから気持ちを読み取ろうとしたり、「きっと相手も分かってくれるだろう」と思ったりするところがあります。

「察する」ということも大切ですが、それだけで思いのすべてを理解できるわけではないでしょう。しっかり言葉を交わさなければ、分かり合えないこともあるはずです。思いを伝えるうえで、言葉はたいへん重要です。

 特に、表情やしぐさが伝わりづらい電話やオンラインでのコミュニケーションなどの場合、自分が発する言葉にも、相手が発する言葉にも、対面で会話をするとき以上に慎重になる必要があるのではないでしょうか。

 人を明るい気持ちにさせる言葉も、暗い気持ちにさせる言葉も、人を勇気づける言葉も、落胆させる言葉も、すべては私たちの心から生まれます。一つ一つの言葉のもととなる自分自身の心を、あらためて見つめていきたいものです。

 感謝や思いやりの気持ちを意識して言葉に表すことは、人間関係に潤いを与えてくれます。そうした温かい言葉によって周囲の人の心に喜びをもたらし、温かく親密な人間関係の輪が広がっていったとき、その輪の中にいる自分自身にも大きな喜びがもたらされることでしょう。

 

令和2年9月号

【No.612】小さな積み重ね

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 昔の小学校の修身書――今でいう道徳の教科書に、こんな話が載っていました。

 江戸時代、儒学者であり医師でもあった滝鶴台(1709~1773)という人がいました。ある日のこと、鶴台の妻の着物のたもとから、ふとした拍子に赤い糸を巻いた毬がこぼれ落ちました。鶴台が「それは何か」と尋ねると、妻は顔を赤くして、こう言いました。

「私は日々、過ちを犯して後悔することが多いのです。そういうことを少なくしたいと思って赤い毬と白い毬をつくり、たもとに入れておくことにしました。

 悪い心が起こったときは、この毬に赤い糸を巻き添えます。よい心が起こったときは、もう一つの毬に白い糸を巻きます。初めは赤い毬ばかりが大きくなりましたが、これではいけないと思って気をつけていくと、やっと二つの毬が同じくらいの大きさになりました。けれども、まだ白い毬が赤い毬より大きくならないことを恥ずかしく思っているのです」

 そう言うと、妻はたもとから白い毬を出し、鶴台に見せたということです。

 鶴台の妻が言った「よい心」と「悪い心」について、修身書では具体的に説明されてはいません。しかし想像してみると、どうでしょうか。

 例えば「ありがたい」という感謝の気持ち。思いやりの心を発揮すること。日常に起こる出来事を肯定的に受けとめること。生活の中に喜びや楽しみを見いだすこと……。そんなプラスの心のはたらきは、「よい心」ということができるでしょう。その反対に、イライラしたときや、不満や怒り、恨みなどのマイナスの感情を抱いたとき、鶴台の妻は毬に赤い糸を巻いたのかもしれません。

 私たちは「日常の小さな心の動き」については、目に見える言動に比べ、注意を払っていないことが多いのではないでしょうか。しかし、たとえ無意識にはたらかせた心であったとしても、繰り返せばどんなことになるでしょう。

 小さなイライラも、積み重なれば大きなストレスになります。一方、プラスの心をはたらかせることを習慣にできたなら、喜びや楽しみを見いだすことが上手になり、自分自身の日常がますます明るいものになっていくはずです。

 そうした「心の生活習慣」を積み重ねた結果は、十年、二十年と年月を経るほどに、私たちの人格や人生そのものに大きな差を生むのではないでしょうか。

 日々、どのような心をはたらかせて生きていくか。その一瞬一瞬の積み重ねが、私たちの人生をつくり上げていきます。

 私たちの心は、プラスにもマイナスにもはたらきます。だからこそ「心の生活習慣」をプラスに向けるように心がけ、毎日の小さな言動の中に表していきたいものです。

「明るい挨拶をする」「温かい言葉をかける」「気持ちよく掃除をする」「進んで履物をそろえる」「優しい気持ちで人に接する」……

 すべてを「心の問題」としてとらえるなら、その気になりさえすれば、いつでもどこでも実践できます。自分にできる小さなこと、今すぐできることを通して「心の生活習慣」をプラスに向けていけば、きっと自分の心の中に喜びが生まれ、その明るく温かい気持ちは周囲にも広がっていくのではないでしょうか。

 

令和2年8月号

【No.611】「当たり前」ってなんだろう

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 私たちは、例えば「お隣さんからおすそ分けをいただいた」というような、目に見えて分かる、ちょっとした厚意を受けた場合には、すぐに感謝の気持ちを伝えようとするものです。お返しをする場合もあるでしょう。

 一方、いつも身の回りにあって、その存在を当然のように感じている物事に関しては、つい、感謝の気持ちを忘れてしまいがちではないでしょうか。「万一これがなくなったら、生活が成り立たなくなる」というくらい日常に溶け込んでいるものほど、ふだんは「その恩恵を受けている」ということを意識せずに生活しているのかもしれません。

 しかし今、あらためて振り返ってみましょう。緊急事態宣言下でも社会の機能が維持されてきたのは、医療・福祉などの現場はもちろん、電気・ガス・水道などのライフラインの背後にも、警察や消防、公共交通機関などにも、それぞれの持ち場で努力を続ける人たちがいたおかげではないでしょうか。また、食料をはじめとして、私たちの生活に不可欠な物品を生産する人、販売に携わる人、配送や修理などの仕事に従事する人というように、さまざまな人たちの尽力によって日々の暮らしが保たれているということにも気づかされます。

 ふだんの生活を「当たり前」と思っていると、社会の中でさまざまな人たちが担っている役割の重要性も、日々の努力の尊さも、すべてが見えにくくなってしまいます。

 人は一人では生きていけません。私たちが社会生活を送るうえでは、意識していなくても、なんらかの形で必ず多くの人たちから支えられています。まずはその事実に目を向けて、「ありがたい」という感謝の気持ちを思い起こすことが大切ではないでしょうか。

 また、私たちはこの社会に支えられているだけの存在ではなく、一人ひとりに社会を構成する一員としての責任があるということも、忘れてはならないでしょう。

 「自分の仕事やボランティアなどを通じて、社会の中での『支え合い』に参画する」ということの大切さは、言うまでもありません。しかしそれだけではなく、「感染症の拡大防止のために一人ひとりがどのような行動をとるべきか」というように、社会全体の「安心な暮らし」につながっていく何かがあるのではないでしょうか。

令和2年7月号

【No.610】「自分のこと」として考える

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 私たちが日々の暮らしを送る社会。そこでは毎日、大小さまざまな出来事が起こります。ふだん見聞きしたり、実際に直面したりする世の中の出来事や状況を、どのような気持ちで受けとめているでしょうか。

 例えば、先を急ぐのに混雑に巻き込まれたとき。「どうして今日はこんなに人が多いんだ!」とイライラするかもしれませんが、ここで考えてみたいのは、混雑の原因には「その場に居合わせた自分自身」も含まれるのではないかということです。

 世の中が悪い、他人が悪い――そうした面も、ないわけではないでしょう。しかし社会という人間の集団は、私たち一人ひとりが集まることで形成されるものです。よくないことが起こったら、周囲の環境が改善されることを待つ間にも、自分自身を省みることが、個人の生き方としては大切なことのように思われます。

 住みよい社会を築くためには、この社会で暮らす私たち一人ひとりが、よりよい生き方をしていかなければなりません。社会を構成する一人ひとりの資質を差し置いて、社会だけがよくなるということはないでしょう。

 例えば、道端に放置されたゴミ。「このくらい、どうということもない」と思って、落としてもそのままにしておく人もいるでしょう。「何も自分が拾わなくてもいいだろう」と思って、見過ごす人もいるでしょう。しかし、それが集まれば大変な量になります。また、そうした小さな「無責任な心」の積み重ねが、社会の一般的な傾向をつくり上げていくのではないでしょうか。

 無責任な社会、個人の勝手気ままが横行する社会が、住みよいはずはありません。その影響は、今を生きる私たちだけでなく、これから同じ社会で生きていく次の世代の子供たちにも及ぶことになるのです。

 今、私たちが暮らしているこの社会は、先人たちが「次の世代のために、今よりもっと住みよい世の中を築こう」という思いを抱いて代々努力を重ねてきた結果、発展してきたものです。科学技術の発達、生活環境の向上、医学の進歩なども、すべては先人たちの努力の賜物です。そうした事実を心に刻み、私たち自身も次の世代に「住みよい世の中」を受け継ぐことができるような生き方を志したいものです。

令和2年6月号

【No.609】譲る心

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 昔々のお話です。

 ある日、少年が裏山に落ちていた栗をいくつか拾いました。それを家に持ち帰ると、父親がこう問いただしました。

「これはどこで拾ったのか」

 実はこの栗、父親が所有する土地と隣の土地との境界のあたりに落ちていたものです。そのことを正直に話すと、父親は言いました。

「すぐに返してきなさい」

 少年は内心、“せっかく拾ってきたのに……”と思ったのではないでしょうか。“これっぽっちのことで……”という思いもあったかもしれません。それでも少年は父親の言いつけに従って、元あった場所に栗を置いてくることにしました。

 

 これは江戸時代の思想家・石田梅岩(1685~1744)の幼少期の出来事として伝えられるエピソードです。明治21(1888)年に出版された『新編小学修身用書』という本では、この話が次のような表題で紹介されています。

「境にある物は他人に譲るべし」

 小学校の教師であった一青年が著した『新編小学修身用書』は、修身、つまり今でいう道徳の授業で子供たちに語って聞かせる話を集めた、自作の教材集です。この逸話が、なぜ道徳の教材になるのでしょうか。ここでは、次のような説明がなされています。

「境にある物は、まだ必ずしも自分の物だという保証がない。こうした場合は、あえて取らないほうがよいのだ」と(参考=廣池千九郎著『新編小学修身用書』巻之一、復刻版はモラロジー研究所刊)。

 大勢の人たちとのかかわり合いのもとに成立している――それがこの社会であり、私たちの日常生活です。そこには、誰に権利があるのかがはっきりしない「境」という領域が、数多く存在しています。

 それは「自分の所有地と他人の所有地の境界に生えた植物、落ちていた木の実を誰が収穫するか」という問題にとどまりません。例えば、一つのケーキをきょうだいで切り分けるとき。学校や公園などで「みんなの遊具」を交代で使うとき。バスや電車の座席をはじめ、「みんなの場所」としての公共の場でのあり方……。そんなとき、一人ひとりがそれぞれに「自分の権利」を主張するばかりでは、お互いの思いがぶつかり合って、人間関係がギスギスしてくるのではないでしょうか。

「自分が、自分が」というふうに考えているとき、私たちは「心のゆとり」をなくして、周囲の人たちのことにまで考えが及ばなくなります。すると人間関係を損なうなどして、いずれは自分自身もなんらかの形で不利益を被ることになるでしょう。

 私たちが安心な暮らしを送るためには、一人ひとりの心づかいと行いが重要です。どんなときも広く柔らかな心で周囲を思いやる「譲る心」を持つ人は、周囲に安心と喜びをもたらすことができるのではないでしょうか。すると人間関係がよりよいものになっていき、自分自身が心に感じる安心と喜びも、ますます増えていくことでしょう。

令和2年5月号

【No.608】「挨拶」の力

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 朝の出会い頭に「おはよう」と声をかけ合うのは、すがすがしいものです。ところがその言葉自体は、内心“朝から嫌な人に会ってしまったな。それでも知らん顔をするわけにもいかないし、まあ仕方がないか”と思いながらでも、口にすることはできます。

 挨拶とは、もともと禅の言葉でした。「挨」には「押し開く」という意味があり、「拶」は「迫ること」を意味します。師匠が弟子に問答を迫って悟りを試す、あるいは修行をしている人同士が問答を繰り返して切磋琢磨するというのが、本来の意味であったようです。

 これが転じて「人に近づき、心を開く際の言葉や動作」を示すようになりました。代表的なものとしては「おはよう」や「こんにちは」をはじめとする言葉の数々、また、動作ではお辞儀や会釈などが挙げられるでしょう。そこには儀礼的な意味もありますが、一般には友好の意思や親愛の情がこもったものと受けとめられます。つまり挨拶とは、みずから胸襟を開き、相手の懐に飛び込んでいくことに通じるのです。

 初対面の人を前にしたとき、また、気心の知れた人がいない場所では、私たちはつい身構えてしまうものです。そんなときにかけられた挨拶のひと言で緊張が解け、心が温まったというのは、多くの人が経験していることではないでしょうか。心のこもった挨拶には、固く閉ざされた心の扉をも押し開いていく、不思議な力があるようです。

 私たちは、家庭や学校、職場、地域社会をはじめとする日常生活の場で、ほかにもさまざまな挨拶を交わしています。それは日常的なものであるだけに、あまり気に留めることはないかもしれませんが、あらためて考えてみると、人間関係の潤滑油的な役割を果たす、とても大切なものです。たったひと言の声かけによって周りの人たちの心が明るくなり、家庭や学校、職場や地域社会が和やかになるのなら、挨拶の言葉を発する私たち自身の日々の暮らしも、より心豊かなものになっていくはずです。

 まずは自分から一歩を踏み出して、日常の挨拶に「相手の幸せを祈る心」を添えていくように意識してみませんか。

令和2年4月号

【No.607】「つながり」を感じる心

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 私たちの生活は、多くの「つながり」に支えられて成り立っています。例えば日常の食事について考えてみると、どうでしょうか。

「私がつくったおにぎり」――言葉でこのように表現したとします。この場合、多くは「お米を研いで、ご飯を炊き、それを握る」という過程を自分の手で行ったことが連想されるのではないかと思います。

  しかし、ここで考えてみたいことがあります。このお米を、私たちはどのようにして手に入れたのでしょうか。

「お店で買ってきた」

「お店にも、仕入先があるはずだ」

「商品として管理したり、運搬に携わったりした人もいるだろう」

「元をたどれば、このお米を生産してくれた農家が存在する」……

 そうした過程に携わる人の多くは、私たちにとって「顔の見えない存在」であり、日ごろ、あまり意識することはないかもしれません。しかし、このお米が私たちの手元に届くまでには、どれほど多くの人たちが、どれほどの労力をかけてくれたことでしょうか。同じように、海苔や塩、おにぎりの具を含めた食材や調味料にも、生産・加工・流通に携わった人たちが存在します。物によっては、その「つながり」が海外まで広がっている場合もあるでしょう。

 現代に生きる私たちは、「完全な自給自足の生活」を送っているわけではありません。一人ひとりが社会の一員として、それぞれの持ち場で役割を果たし、生活に必要な物品やサービスを提供し合うこと、さらにはその報酬を受け取ることで社会生活を成り立たせています。つまり私たちは知らず知らずのうちに、実に多くの人たちとの「つながり」に支えられて、今を生きているのです。

「それはギブ・アンド・テイクの関係だから、特別に恩義を感じたり、感謝したりする必要はない」という考え方もあるのかもしれません。しかし、この支え合いや助け合いに対して「ありがとう」という心を向けることは、社会という「つながり」の中にある一人ひとりの努力を正しく受けとめ、お互いの存在や人格を尊重し合うことに通じていくのではないでしょうか。

 私たちは、決して自分一人の力で生きているのではありません。さまざまな「つながり」の中で生かされて生きていることを思うとき、「おかげさまで、ありがたい」という、謙虚な感謝の気持ちがわいてくることでしょう。自分自身を支えてくれている、さまざまな「つながり」を再認識し、いっそう強い絆を育みながら、一人ひとりの心豊かな人生と住みよい社会を築いていきたいものです。

令和2年3月号

【No.606】「苦手」と向き合う

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 苦手――そこには、私たちがその物事に対して抱く嫌な感情、疎ましく思う気持ち、不快感などが見え隠れします。

 その感情は、どこから生まれてくるのでしょう。それは行き着くところ、自分自身の考え方や感じ方、または一時の気分や機嫌などから生まれていることが多いのではないでしょうか。つまり私たちが苦手と感じる物事そのものが「絶対的に悪いものだ」と言い切れることは案外少ないのではないか、ということです。

  ――蛙を好きな人と嫌いな人がいますが、嫌いな人は「蛙」と聞いただけで、嫌な気持ちになるでしょう。(中略)人間は、個人個人によって蛙に対しての好き嫌いの差が激しく、その違いの幅は極めて大きいのです。人間の好き嫌いは、人物、事物、事柄、言葉など、すべてのことに及んでいます。蛇は、本能に左右されているので、蛙に対する好き嫌いを自分の意志で変えることはできません。人間は、蛙に対する好悪をいつでもコントロールできます。つまり、蛙が嫌いな人でも好きになることができます。例えば、蛙が好きな友だちを持ったとします。すると、その人に会うといつも蛙の話ばかりするので、だんだん慣れてきて、蛙を好きになっていく場合もあるでしょう―― ――蛙を好きな人と嫌いな人がいますが、嫌いな人は「蛙」と聞いただけで、嫌な気持ちになるでしょう。(中略)人間は、個人個人によって蛙に対しての好き嫌いの差が激しく、その違いの幅は極めて大きいのです。人間の好き嫌いは、人物、事物、事柄、言葉など、すべてのことに及んでいます。蛇は、本能に左右されているので、蛙に対する好き嫌いを自分の意志で変えることはできません。人間は、蛙に対する好悪をいつでもコントロールできます。つまり、蛙が嫌いな人でも好きになることができます。例えば、蛙が好きな友だちを持ったとします。すると、その人に会うといつも蛙の話ばかりするので、だんだん慣れてきて、蛙を好きになっていく場合もあるでしょう――(望月幸義著『「考え方」を変える』モラロジー研究所刊)

 もちろん、蛙を苦手な人が実際に蛙を好きになることは、それほど簡単なことではないでしょう。しかし「苦手という感情は、自分自身がつくり出すものである」という認識は、避けがたい「苦手」との向き合い方を考えるうえで、一つの参考になるのではないでしょうか。

 中国古典の『礼記』に、こんな一節があります。

「愛して而も其の悪を知り、憎みて而も其の善を知る」

 愛する人であっても、欠点は欠点としてきちんと理解しておこう。憎んでいる相手であっても、その長所や美点は正しく認めよう――そう心がけたなら、いつ、どんなときでも、また、どんな相手とも、心穏やかに向き合うことができるのではないでしょうか。

 どんな人にも必ず「いいところ」があり、同時に「よくないところ」もあるものです。その事実を正しく認識したうえで、相手を尊重しながら接していくことは、その人の「ありのままの姿」を受けとめることにほかなりません。

 もう一つ、人や物事に対して“苦手だな”と感じてしまう自分自身をありのままに受けとめることも、大切なのかもしれません。そこでひと呼吸を置いたら、今度は「苦手」という感情にとらわれすぎないように心がけつつ、「自分がこの物事と向き合う意味」や「相手の長所や美点」を冷静に見つめてみたいものです。そこから、前向きな一歩を踏み出せることもあるのではないでしょうか。

 かたくなになりがちな私たちの心。それをほんの少しだけゆるめてみると、苦手なもの、苦手なこと、苦手な人に向ける目も、穏やかなものに変えることができるかもしれません。いつも穏やかな心で毎日を過ごしたいものです。

令和2年2月号

【No.605】「希望」を見いだす

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 お正月の神社仏閣は、三が日を中心に初詣の人たちでにぎわいます。その機会には、多くの人が「どうか今年もよい1年になりますように」と祈るのではないでしょうか。

 ある小学校の先生は、道徳の授業に関連して、子供たちにこんな問いかけをしたそうです。

「もし自分がその神社の神様だったら、どう思うかな」

 すると、子供たちの反応は……。

「そんなにたくさんの人からお願いされても、応えられない」

 ……もっともな話です。これを受けて、先生は子供たちに語りかけます。

「神社やお寺では、自分のことを“お願い”するのではなくて、“感謝と誓い”をするものではないだろうか」と(参考=寺門光輝著『子供と語り合う「道徳の時間」』モラロジー研究所刊)。

 年の初めにあたって、誰もが心に抱くであろう「今年もよい1年に」という希望。それは神仏にご利益を願うことでかなうものというより「そんな明るい未来が開けるように、私は努力をします」と自分の心に誓うからこそ実現されていくのではないか、というわけです。

 心の中の言葉は、力を持ちます。「頑張ろう」という思いは、心の中にプラスのエネルギーを生むはずです。反対に「もうダメだ」と思ったなら、悲観的で消極的なマイナスの心がはたらいて、未来にも希望を持てなくなってしまうのではないでしょうか。また、口に出して言ったなら、その言葉を聞く人たちの心まで暗く重くなっていくことでしょう。

 それは初詣の「祈り」だけの問題ではありません。日ごろ、私たちが何げなく口にし、心の中で思う言葉。希望に満ちた実り多き人生を、みずから切り開いていく「心の姿勢」をつくるため、そして周囲を明るくしていくためにも、ひと言ひと言に注意を払いたいものです。

 ここで元号「令和」に込められた意味について、あらためて考えてみたいと思います。

 ――悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいく。厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人ひとりの日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたい――(平成31年4月1日、内閣総理大臣会見より)

 この言葉の後半を、私たち一人ひとりの人生に置き換えて考えてみましょう――たとえ人生を歩むうえで厳しくつらい時期があったとしても、それを乗り越えたなら、次には必ず希望の花開く「春」を迎えることができるのではないでしょうか。

 冬来たりなば春遠からじ。それを信じて、どんなときも希望を忘れずに歩み続けていきたいものです。

令和2年1月号

【No.604】うれしい言葉 耳の痛い言葉

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 Aさんには、30年以上前に高校時代の恩師から教わって、今でも心に留めている話があるといいます。

 ――誰かについての「いい話」……例えば「よいことをした」とか「すばらしい人だ」といったことは、直接本人に伝えるより、むしろ周囲の人たちに伝えよう。「いい話」を聞いたら、みんな心温まる思いがするでしょう。直接の褒め言葉はおべっかのようになって、お互いのためにならないこともあるが、巡り巡って本人の耳に入った言葉なら「自分の知らないところで、そんなふうに言ってくれていたのか!」と、かえって喜びが大きくなるのではないかな。反対に、「よくない話」……失敗したことや、欠点・短所にかかわることは、周囲の人たちには一切言わないこと。「忠告」「注意」は誰もいない場所でこっそりと、直接本人に教えてあげなさい――

 確かに「人を介して伝わる言葉」は、かかわる人が多くなるほどにインパクトが大きくなるものです。

「よくない話」を本人のいない場所で第三者に言えば、陰口になります。自分が陰口をたたかれていたことを知って、うれしく思う人はいないでしょう。たとえ自分に非があり、その事実を指摘されたにすぎないとしても、人を介して自分の耳に入れば、ますます受け入れがたい気持ちになるのではないでしょうか。

 そして陰口は「たまたま耳にした第三者」にとっても気持ちのよいものではありません。仮に同調しながら聞いた場合は、話題の人物を心の中で見下したり、あざけったりすることになるのでしょうから、話し手も聞き手も冷たい心が増幅され、嫌な雰囲気が広がっていくことでしょう。

 私たちの言葉は、よくも悪くも周囲の人たちに影響を及ぼします。もしかすると、私たちが思う以上に大きな影響が生まれているのかもしれません。

 「よい影響」であれば、ぜひ広めていきたいものですが、「悪い影響」は極力抑えるべきでしょう。また、万が一にも陰口に打ち興じているとしたら、自分の口から発した「よくない話」を一番近くで聞くことになるのは自分の耳であるという点も、心に留めなければなりません。

 近年は通信技術の発達により、少し前までは想像もつかなかったほど、多種多様なコミュニケーションの手段が生まれました。遠く離れた場所にいる人に対して、または不特定多数の人に向けても、手軽に言葉を伝えることができるようになっています。そうした場合も、顔と顔を合わせて言葉を交わす際と同様に「言葉が自分と周囲に与える影響」や「相手を思いやることの大切さ」を心に留めておかなければならないでしょう。

「言葉は身の文」といわれます。言葉とは、その人の人間性を表すものであるということです。日々に発する言葉のもととなる、自分自身の内面にも、あらためて目を向けていきませんか。

令和元年12月号

【No.603】「心のつながり」を思う

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 家庭や学校、職場、地域社会……。私たちの生活の場には、世代を重ねて受け継がれてきた大小さまざまな物事があります。それらの中には、ふだんは意識されないほど私たちの暮らしに溶け込んでいるものもあるでしょう。中でも一番の基本といえるものが「いのちのつながり」です。

 人は誰もが父親と母親から「いのち」を与えられ、この世に生まれてきました。さらに誕生後も、ある程度の期間は周囲の大人たちによる献身的な養育を受けなければ、生き抜くことはできなかったはずです。

 養育とは、単に「食物を与えられ、身の回りの世話をしてもらう」ということにとどまりません。「人は教育によってのみ人間になる」といわれるように、私たちは周囲の大人たちに導かれながら、言葉や生活習慣、物事の善悪などを学び取り、社会の中で生きるための基本的な能力を身につけてきました。そこには「手をかけ、時間をかけてもらった」という労力の問題だけでなく、こんな心が存在していたのではないでしょうか。

“どうかこの子が無事に生まれ、元気に育っていくように”

“社会の中でしっかりと生きていくことができるように”

 親をはじめとする多くの大人たちとの「つながり」の中で、そうした温かい心を注がれてきた結果、私たちの今日があるといえるのです。

 生活環境や栄養状態、医療技術などが確立されていなかった時代は、生まれた子供が無事に成長していけるかどうかは今以上に切実な問題でした。そのため、先人たちは子供の成長過程の節目ごとにさまざまな儀礼を行って、その無事な成長を祝い、そして祈ってきました。今でも出産前の「帯祝い」に始まり、誕生後の「お宮参り」など、多くの風習が残っています。

 11月15日に行われる「七五三」もその一つです。今日のように、7歳の女児、5歳の男児、3歳の男児と女児が氏神様に詣でて健やかな成長を報告した後に千歳飴をいただくという形になってきたのは、明治以後の東京からのようですが、今では全国的に行われています。

 長い歴史を経て私たち日本人の生活に根づいてきた風習や儀礼などの形式は、今後も時代に応じて変化していく部分があるかもしれません。しかし、それらの根底に流れている先人たちの心をしっかりと汲んで、次の世代へとつないでいくことは、大人世代の大切な役割であり、先人に対する「恩返し」の一つの方法といえるのではないでしょうか。

令和元年11月号

【No.602】「よいこと」をしているのに

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 地域密着型のスーパーマーケットを経営するSさん。「地域の方々に喜んでいただける店づくりをしたい」という思いから、早朝の掃除を思い立ちました。

 店の周辺を1人で黙々と掃除するうちに、お店の人たちが出勤してきます。Sさんの姿を目にした皆は驚き、口々にこう言いました。

「社長、すみません」

「私たちがやりますから」

 そもそも、これはSさんが自分でやろうと決めた掃除です。Sさんは「いいから、いいから」と言うと、すがすがしい気持ちで掃除を続けました。

 ところが、それから1か月もたつと、Sさんの掃除は「朝の見慣れた光景」になってきました。毎日のことですから、お店の皆も初めのころのように驚いたりしません。出勤時にSさんが掃除をしているところに行き合っても、軽い挨拶をするだけで通り過ぎていくようになりました。

 そのとき、Sさんの心の中で何かが変わり始めました。

 社長である自分が朝早くから1人で掃除をしているのだから、皆もたまには手伝ってくれてもいいじゃないか。少なくとも「すみません」と言うくらいの気づかいがあってもいいはずだ……。どこからか、そんな気持ちがわき起こってきたのです。

 よいと思われる物事に率先して取り組むこと。それは道徳的な行為といえます。しかし、そのときの自分自身の心をよくよく見つめてみると、どうでしょうか。

 善意の行動でも、心のどこかに「やってあげている」という意識があると、見返りを求めてしまいがちです。相手が感謝の気持ちを示してくれないと、不満がわき起こります。また、何事にも熱心に、そして真面目に取り組むのは大切なことですが、「自分ほど熱心にやらない人を責める」というように、「自分」を基準に物事を測り、歩調の異なる人を受け入れないようでは、人間関係はうまくいかなくなるでしょう。

 これは一見すると「よいこと」「正しいこと」に思える行為の中に、自分中心の身勝手さが見え隠れしているようでもあります。結果として「よいこと」をしながら周囲の人と衝突したり、自分もストレスを抱えたりするのであれば、それは本当の意味での「よいこと」とはいえなくなる可能性があります。

「言うは易く、行うは難し」といわれます。しかし「行うこと」よりも難しいのは、そのときの「心の持ち方」なのかもしれません。 

 周囲の人たちの立場や状況を思いやりつつ、自分の心を謙虚に見つめ直す習慣は、自分自身を確実に成長させてくれます。また、そうした心の姿勢は、接する人たちにも自然と伝わり、親しみを生むものです。それは、よりよい人間関係を築き、お互いの人生を心豊かなものにしていくうえで、大きな力になることでしょう。

令和元年10月号

【No.601】伝えよう 心からのありがとう

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「ありがとう」――それはたったの五文字ですが、人間関係に潤いを与える、とても大切な言葉です。ただし、ふだんはあまり気にも留めず、何げなく口にしている場合もあるかもしれません。

 誰かから親切にしてもらって、お礼を言うときのことを考えてみましょう。同じ「ありがとう」という言葉をかけるのでも、内心“これぐらい、大したことではない”と思いながら言うのと、“おかげさまで、助かりました”という心からの感謝を込めて言うのとでは、まったく違う響きをもって相手に伝わるのではないでしょうか。

 もちろん、相手の心に喜びを生み、お互いの絆を強めてくれるのは、心からの感謝を込めた「ありがとう」でしょう。

 そこに込める「心」を、あらためて見直してみると、「ありがとう(有り難う)」とは「そのように有ることが難しい」という意味です。それは「当たり前ではない」ということでしょう。

 与えられた状態を「当たり前」と思ってしまうと、ありがたみは見えにくくなるものです。とりわけ家族のように近しい間柄であればあるほど「相手がこれをやってくれるのは当たり前」「自分も相手にしてあげていることがあるのだから、お互いさま」などと思ってしまいがちではないでしょうか。また、ありがたみが分かっていたとしても、気恥ずかしかったり、「今さらそんな他人行儀なことを言う必要はない」と思ったりして、なかなか素直に「ありがとう」を言えないものかもしれません。

 しかし、世の中に「当たり前」はないはずです。私たちの日常に隠れている「有り難いこと」の一つ一つに目を向け、そのありがたみをしっかりと認識するほどに、喜びを感じる機会が増えていきます。否定的な考えから「ありがとう」は生まれません。何事にも感謝できる人は前向きで、喜びをつくるのが上手な人といえるでしょう。

 そして、心からの「ありがとう」の言葉は、相手に“あなたのしてくれたことを、私はきちんと認識しています”“あなたのことを大切に思っています”というメッセージを伝えてくれます。そのメッセージこそが、相手の心に喜びをもたらし、私たちの人間関係に潤いを与えてくれるのではないでしょうか。

 お互いの心に喜びをもたらし、人生を輝かせる「ありがとう」の言葉。まずは一番身近な人に向けて、心からの「ありがとう」を言ってみませんか。

令和元年9月号

【No.600】道徳ってなんだろう


 総合人間学モラロジーの創建者・廣池千九郎(法学博士、1866~1938)は、大正から昭和の初めにかけて「道徳の科学的な研究」に取り組みました。その廣池に、次のようなエピソードがあります。

 昭和4(1929)年3月、廣池が2人の随行者を連れて講演先へ向かう道中の出来事です。乗っていた汽車が途中の駅で止まったかと思うと、その先でトンネルが崩落したとの知らせが入り、下車を促されました。復旧を待っていたのでは、講演先との約束の時間に間に合いません。一行は駅前でタクシーを頼み、3人を乗せて目的地まで20円で行ってもらうことになりました。

 荷物を積み込み、出発しようとしたとき、2人の人物がやってきました。1人は「重要な仕事があって先を急いでいる」という、会社員風の男性。もう1人は「どうしてもすぐ家に帰らなければならない」という女学生です。駅前のタクシーは出払っていて、廣池たちが乗ろうとしている1台を残すのみでした。気の毒に思った随行者は、親切心から「どうぞ、どうぞ」と同乗を勧めました。

 ところが、その人たちが車に乗り込もうとした瞬間、廣池が口を開きました。

「私たちは目的地まで、3人で20円という契約をしたのです。あなた方2人が加われば、その分ガソリンが余計にいるでしょうし、タイヤも傷むでしょう。それでは運転手さんが気の毒だから、私たちもあなた方も全員、1人5円ずつ出すことにしませんか」

 つまり、5人で合わせて25円を支払うことにすれば、運転手は当初の契約より5円収入が増えるというわけです。

 実は、そこには「同乗を頼んできた人たちだって、多少なりとも自分のお金を出したほうが気兼ねなく乗っていけるだろう」という配慮もありました。廣池たちの一行も、同乗者が増えることで少々窮屈な思いはするでしょうが、3人で15円ということなら、当初の予定より5円安く済むのです。種明かしが済むと、廣池はこう言いました。

「これで三方、どちらもよいことになるでしょう」

 

 自分が親切心を発揮することで、相手が助かる。それは「道徳的な行為」といえるでしょう。しかし、その行為の影響を受ける「自分と相手以外の第三者」の存在を、ともすると見落としてしまっていることはないでしょうか。

 ここでいう「第三者」とは、エピソード中のタクシーの運転手のように、顔の見える相手ばかりとは限りません。広くとらえるなら、それは私たちが生きる社会全体ともいうことができます。

 私たちは、この広い世界にたった1人で生きているのではありません。まずは日常、何かをしようとするときには、ひと呼吸置いて「自分の行為の影響を受ける人」の存在に思いを馳せてみたいものです。こうして、一人ひとりが「自分よし・相手よし・第三者よし」の「三方よし」を心がけ、みずからが発信源となってより多くの人たちへと思いやりの心を広げていったとき、きっと「誰にとっても安心・円満な社会」が実現するのではないでしょうか。

令和元年8月号

【No.599】笑顔という贈り物

 多くの人々のかかわり合い・支え合いで成り立つ社会。そこでお互いに気持ちよく暮らしていくためには「自分がされて嫌なことは、他人にもしてはならない」というだけでなく、もう一歩進んで「自分がされて気持ちのよいことを、他人にもしていこう」「人に喜んでもらえることをしよう」という考えが大切ではないでしょうか。

 それは必ずしも「特別に大きなこと」をしなければならないわけではありません。自分の日常をあたらめて見つめてみると、ささやかでも周囲に喜びの種をまくことができる「何か」がきっと見つかるはずです。

 そうした実行の手がかりは、仏教の経典の中にも見ることができます。次に紹介するのは「無財の七施」――財産がなくても人に施しを与えることができるという、七つの方法が示された教えです。

 1.眼施――憎むことなく、好ましいまなざしをもって他人を見ること。
 2.和顔悦色施――にこやかな和らいだ顔を他人に示すこと。
 3.言辞施――他人に対して優しい言葉をかけること。
 4.身施――他人に対して身をもって尊敬の態度を示すこと。
 5.心施――よい心をもって他人と和し、よいことをしようと努めること。
 6.床座施――他人のために座席を設けて座らせること。
 7.房舎施――他人を家の中に迎え入れ、泊まらせること。
     (参照=中村元著『広説佛教語大辞典』東京書籍刊)

 私たちは、誰もが「思いやりは大切である」と知っています。しかし重要なことは、現実の人と人とのかかわりの中で、思いやりの心をどのように生かしていくかということではないでしょうか。

 日常生活の中の、ほんの些細なことでもよいのです。まずは穏やかな気持ちで周囲を見渡して、和やかなまなざしを注ぐことから始めてみましょう。

「直接的に相手の役に立つことをする」というわけではなくても、相手の幸せを願って向けた笑顔は、相手の心に温かい思いを届けてくれることでしょう。それは相手に喜びをもたらす「贈り物」といえます。そのとき、自分自身の心の中にも穏やかで温かい気持ちが広がっていくのではないでしょうか。

 反対に、ほかの誰かから思いやりを受けたときは、ほほえみをもって「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えたいものです。その笑顔に触れただけでも、相手の心の喜びは増していくのではないでしょうか。これもまた、思いやりの実行の一つです。そんな「思いやりの贈り合い」は、相手との関係を円満にするだけでなく、そこで生まれた温かい空気は周囲にも波及して、広い社会を潤す力となっていくことでしょう。

令和元年7月号

【No.598】「食」と「心」

 毎年6月は「食育月間」とされています。

 食とは、体の成長や健康維持だけでなく、心の成長や人と人とのコミュニケーションも含めて、私たちの人生を豊かにするうえで重要な意味を持つものです。しかし、忙しい毎日を送る中では、ともすると「食」そのものの大切さを忘れてしまいがちではないでしょうか。

 こうした状況に対する危機感からか、近年では「食」に関する教育、いわゆる「食育」への関心が高まってきました。平成17年には「食育基本法」が成立し、それに基づいて「食育推進基本計画」が作成されるなど、国を挙げての運動が推進されています。毎年6月の「食育月間」も、その1つです。

 食育基本法の中で、食育は「生きる上での基本であって、知育、徳育及び体育の基礎となるべきもの」「豊かな人間性をはぐくんでいく基礎となるもの」と位置づけられています。ここでは、毎日の食事を、単に「体の成長や健康維持のために重要なもの」とだけとらえているわけではないようです。それでは今、自分自身の日常の食事をあらためて振り返ると、どのようなことに気づくでしょうか。

 「ありがたい」という言葉は、漢字では「有り難い」と書きます。つまり「そうあることが難しい」「めったにないことである」という意味であり、だからこそ、それがあることに感謝せずにはいられないという気持ちが込められた言葉なのです。

 毎日の食事に関しても、その背景を考えてみると、さまざまな「ありがたいこと」が潜んでいることに気づきます。例えば、食事を準備してくれた人の労力。食材の生産や流通に携わった人の存在。さらには、すべてのものを育んだ自然の恩恵……。そのうちのどれか一つが欠けたとしても、この食事は私たちの口に入らなかったことになります。また、食卓を共に囲む人の存在の大きさは、いうまでもありません。

 こうした「あって当たり前」の中にある「ありがたさ」に気づき、感謝する心を大きく育てていくことが、豊かな人間性を培い、よりよい人生を築くことにつながっていくのではないでしょうか。

 今、私たちが「当たり前」と思っている日常は、本当は「とてもありがたいもの」なのかもしれません。まずは目の前の食事に対して、心からの感謝を込めて「いただきます」「ごちそうさま」を言ってみませんか。

令和元年6月号

【No.597】「いいところ」を見つめよう

 私たちは日ごろ、些細なことから大きな問題まで、さまざまなことに物事の善し悪しを判断する目を向けています。それは「好きか嫌いか」といった感情に基づいていることもあるかもしれません。

 そうした目は、自分自身に対しても向けられる場合があります。自分の中には誇れる長所もあるでしょうが、できれば他人の目には触れないように隠しておきたい短所もあるでしょう。短所や欠点が気にかかっているとき、私たちの心は暗く沈んでいきます。するとそのマイナス面に、ますますとらわれてしまうのではないでしょうか。

 周囲の人たちへ向ける目にも、同じことがいえます。中には「困った人だな」「なんとなく苦手だな」と思う相手もいることでしょう。そんなマイナス面にとらわれていては、相手を心から受け入れることはできず、人間関係がギスギスしてきます。

 私たちの物事を見る目は、一面的になりやすいようです。その点を自覚したら、とらわれから抜け出すためにも、積極的に人や物事の「いいところ」に目を向けるように努めたいものです。もちろん、自分自身に対しても。そうすることで、私たちの心は明るく穏やかになり、自分や相手の持ち味をよりよく伸ばして、円満な人間関係を広げていく手がかりが得られるのではないでしょうか。

 私たちの持つ長所と短所は、表裏一体であることが多いものです。善し悪しを判断する感情を取り除き、それを単なる「個性」や「持ち味」として冷静に見つめてみると、短所と思っていた点にも「いいところ」が見いだせるのかもしれません。例えば「おせっかい」は「親切」、「しつこい」は「熱心」、「頑固」は「意志が強い」というように。そして相手の「いいところ」が見えてくると、親しみが増してくることでしょう。

 私たち人間に与えられた「考える」という力。せっかくですからその力を、自分も周囲の人たちも少しでも喜びを感じながら生きることができるよう、プラスの方向に生かしていきたいものです。

令和元年5月号

 

 

平成31年以前

平成31年以前

【No.596】「まごころ」の力


中国古典の『孟子』に、次のような話があります。

――人には皆、他人の不幸を平気で見ていられない心がある。例えば幼児が井戸に落ちそうになっているのを目にしたら、誰もがはっと驚いて、助けようとする気持ちが自然とわき起こるはずだ。それは子供を助けることで、その父母とお近づきになりたいと思うからではなく、周囲の人たちに賞賛されたいからでもなく、助けないことで悪評が立つのを恐れるからでもない。つまり、この心は、誰もが生まれながらに持っているものである――

『孟子』ではこれを「惻隠の心」という言葉で表現し、「惻隠の心は仁の端なり」と述べています。仁とは他を慈しむ、深い思いやりの心です。そんな仁の糸口となる温かい「まごころ」の芽は、誰の心の中にもあるというのです。

人の悲しみに接したら、胸が締め付けられるような思いがして、なんとか慰めたいという気持ちがわいてくる。困っている人に出会ったら、何か自分にできることはないかと考える。私たち一人ひとりにも、そんな経験があるのではないでしょうか。そんな温かい思いや優しい気持ちこそが「まごころ」の芽なのです。

私たちは日々、心の中に芽生える温かい思いや優しい気持ちを、身近な暮らしの中で、どれだけ生かすことができているでしょうか。

今、静かに自分自身の生活を振り返ってみましょう。そこには必ず誰かの「まごころ」が存在するはずです。自分を生み育ててくれた親祖先や、お世話になった先生や先輩、親しい友人や近所の人たちなど。また、一度だけ会った人から受けた「小さな親切」まで数え上げれば、きりがありません。そうしたことに気づいたら、感謝と共に心の中に芽生える温かい思いや優しい気持ちを大きく育て、自分自身も積極的に行動に表すように努めたいものです。

誰かの「思いやりあるひと言」に触れてありがたく思ったなら、自分も周囲の人たちに温かい言葉をかける。誰かの手助けを受けて救われた気持ちになったなら、自分も「困っている人の力になれたら」という気持ちで周囲を見渡してみる。そこで生まれたぬくもりは周囲にも波及して、よりよい社会を築く原動力となっていくことでしょう。そうしてこそ、私たち自身の安心と喜びに満ちた人生が開かれていくのではないでしょうか。

平成31年4月号

【No.595】一人ひとりの「安心」づくり


防災の専門家として地域・学校・企業等の危機管理教育を手がける鎌田修広さん(株式会社タフ・ジャパン代表)は、「災害に強い町づくりに不可欠なものは、住民同士の心の絆。その核こそ道徳教育である」と述べています。

鎌田さんが「防災」と「道徳」の結びつきに気づいたのは、阪神・淡路大震災の震源に近い兵庫県の北淡町(現・淡路市)を訪ねたときだったといいます。

平成7年1月の震災発生時、北淡町では全世帯の6割が全半壊し、約300人もの人が生き埋めになりました。しかし、そのほとんどが消防団を中心とした住民の協力によって素早く救助され、多くの命が救われています。

この奇跡の救出劇に関心を持ち、後年、調査のために北淡町を訪れた鎌田さん。その目に飛び込んできたのは「道徳教育推進の町」という看板でした。町の人に尋ねると、確かに以前から、命の尊さや助け合いについての教育が重視されていたということです。何より日ごろ、お互いの家族構成はもちろん、「誰がどの部屋で、どちらを向いて寝ているか」まで知り得るほどの絆が育まれていたからこそ、短時間での救助が可能になったのです(参照=鎌田修広著『愛と絆で命をつなぐ「防災道徳教育」――今すぐ取り組む防災アクション〈道徳教育シリーズ〉』モラロジー研究所刊)。

災害に対する備えとして、物資の備蓄やライフラインの強化などが大切であることは、いうまでもありません。同時に日ごろ、周囲の人たちと「よりよいつながり」を築いていこうとする努力もまた大切な「備え」であり、いざというときに大きな力を発揮することを、私たち一人ひとりがあらためて考え直してみる必要があるのではないでしょうか。

「住みよい町」「安心して暮らせる町」とは、生活環境が整っていたり、行政サービスが充実していたりという「外的な条件に恵まれていること」だけが重要なのではないでしょう。そこには、自分自身も地域の一員として「安心な町の、安心な人間関係づくり」に携わっていく立場であるという自覚が不可欠です。

例えば「明るい挨拶」「近所の子供たちの成長を温かい目で見守ること」「お年寄りへの声かけ」「誰かから親切にしてもらったときに返す、心からの感謝の言葉」など。まずは身近な人たちに対して「安心や喜びを与えるはたらきかけ」を実践してみましょう。その積み重ねで、心が通い合い、互いに助け合うことのできる温かい人間関係の輪が地域全体に広がっていったなら、どんなにすばらしいことでしょうか。

安心な暮らしを送りたい――そう願うのなら、まずは自分から「安心な人間関係づくり」のための一歩を踏み出したいものです。

平成31年3月号

【No.594】ごめんなさいが言えますか


家族や友人、職場の同僚など、身近な人との間でトラブルが起こったとき、どのように対応しているでしょうか。

いつも「自分は正しい」と思ってはいないでしょうか。相手ばかり批判して、心を傷つけるようなことをしてはいないでしょうか。済んでしまったことに、いつまでも愚痴をこぼしていないでしょうか。「私が悪かった」と反省し、素直に謝ることができているでしょうか。

過ちや失敗は、誰にでもあることです。悪気はなかったとしても、自分のことを考えているうちに、つい他人に迷惑をかける行為をしてしまっていることもあるかもしれません。

しかし、私たちはそのことについて他人から指摘や忠告を受けたとしても、素直に認めることができず、無意識のうちに自分を守ろうとする気持ちがはたらきます。そうして心に余裕がなくなると「ごめんなさい」のひと言が言えなくなり、ますます人間関係の不協和音が広がるのです。

そんなときは、まずひと呼吸置いて、相手と自分の立場を交換し、相手の立場から自分自身の言動を見つめ直してみましょう。すると、知らず知らずのうちに相手の心を傷つけるような言動をしていなかったか、迷惑をかけていなかったかなど、それまで気づいていなかったことが見えてくるかもしれません。

済んでしまったことを「あのときにこうしておけば……」などと悔やみ、後ろを向いて思い悩むばかりでは、次の一歩を前向きな気持ちで踏み出すことはできないでしょう。しかし「反省」は、後悔とは異なります。それは「不完全な自分」を自覚して、同じように「不完全な他者」を受け入れ、認めつつ、共に前向きに歩んでいくための力を生み出すものです。自分の失敗を誰かに指摘された場合なども「貴重な反省の機会」と受けとめて、明日への力にしていきたいものです。

自分自身を冷静に省みる――その一日一日の積み重ねが、私たちの心を成長させ、周囲の人とのよりよい関係を築いていくもとになるのではないでしょうか。

平成31年2月号

【No.593】大人ってなんだろう


3年後には、成年年齢が18歳に引き下げられることになりました。これに先立って選挙権年齢が引き下げられたこともあり、「大人になる」とはどういうことかについて、あらためて考える機会を持った方も多いのではないでしょうか。

それは「投票する権利を得る」「親の同意を得なくても、1人でさまざまな契約ができるようになる」といった、法律上の問題だけではないでしょう。

考えてみると、私たちが生まれたばかりのときは、自分の身の回りのことすら満足にできなかったはずです。それが家族をはじめとする周囲の大人たちのお世話を受けながら成長するうちに、やがて自分のことは自分でできるようになり、自分以外にも目を向けることができるようになって、今度は自分自身が「お世話をする側」になっていく。それもまた「成長する」「大人になる」ということの大切な側面ではないでしょうか。

自分1人のことだけでなく、周囲の人たちのことを考える。そして家庭から職場や地域社会、さらには日本や世界のことへと視野を広げ、自分自身にできることを考えていく……。「大人になった」というときには、社会的な権利の面ばかりでなく、そうした「社会の一員としての生き方」についても考えを深めていきたいものです。

何より、私たちは1人きりで生きているのではなく、過去から未来へと続いていく「いのちのつながり」に支えられている存在です。また、今の暮らしが世の中の多くの人たちとの「つながり」に支えられているということも、忘れてはならない事実でしょう。

こうしたことにしっかりと目を向け、感謝の心を育んでいくこと。そして自分自身も誰かを支える側に立ち、先人たちから受け継いだものをよりよい形で次の世代へバトンタッチしていくという志を持つことも、この社会に生きる大人としての大切な「務め」につながっていくのではないでしょうか。

私たちの心は、目には見えませんが、自分自身の人生を豊かにする大きな可能性を秘めています。1日1日を丁寧に過ごして、喜びの多い人生を築いていきたいものです。

平成31年1月号

【No.592】これって誰がやるの?


ある日の休み時間、教室の入り口近くに紙くずが落ちていることに気づいたY君(9歳)。ゴミ箱はすぐそばにありましたが、Y君は少し考えました。

“僕が落としたわけじゃないし……。それに、後で掃除の時間もあるんだから、きっと当番の人がきれいにするよ”
Y君は落ちている紙くずを横目に、そのまま通り過ぎてしまいました。

こんなふうに“自分がやらなくてもいいだろう”と思って見過ごしてしまっている物事が、皆さんの日常生活の中にもないでしょうか。

例えば職場の中でも、特に役割分担が決められていない「小さな仕事」はあるものです。残り少なくなった備品の補充。共有の資料棚の整理整頓。観葉植物の水やり。いっぱいになったゴミ箱を、誰が片付けるのか……。

「気づいた人がやればいい」
「手の空いた人がやってくれるだろう」
「そもそも、散らかす人がいけない」
そうした考え方もあるでしょうが、一人ひとりがそう思って手をこまぬくばかりでは、物事は動きませんし、「責任の押し付け合い」のようになっても、お互いに心穏やかではないでしょう。

多くの人たちとの関わりの中で成り立つ私たちの日常には、もともと「誰の役割」というように明確には決まっていないこともあれば、「誰がやってもいいことだけど、誰かが率先してやらなければ物事が進まない」という場合もあります。

そうした役割に直面して“どうして自分がこんな面倒を……”という思いがわき起こったときは、私たちと社会との関係を、あらためて見つめ直してみましょう。それは「お世話になったり、お世話をしたりする関係」ともいえますし、「迷惑をかけたり、かけられたりすることもある関係」ともいうことができます。「もしかしたら自分自身も、知らず知らずのうちに誰かに迷惑をかけていることもあるかもしれない」と考えてみると、心穏やかに「誰の役割でもない物事」と向き合うことができる面もあるのではないでしょうか。また、誰がやってもいいことなら、自分が一歩を踏み出して、その「誰か」になってみよう――そんな心がけも必要なのかもしれません。

何より、こうして一人ひとりが「自分の責任として、きちんとしておこう」と感じる範囲を少しずつ広げていったなら、社会全体がよりよいものになっていくのではないでしょうか。

平成30年12月号

【No.591】心の受信力・発信力


東京大学名誉教授の月尾嘉男さんは、北アフリカの砂漠地帯で遊牧生活を送る先住民族の人々を訪ねたときの体験を、次のように紹介しています。

訪問先は、アトラス山脈の南側の斜面に当たる土地。山脈を横断する道路の途中で車を降りてから、灌木がまばらに生えているだけの標高2600メートルほどの砂漠を徒歩で1時間半も進んでいくと、ようやく遠くの窪地に建てられたテントが見えてくるという、孤立した地域です。

このテントで暮らす3世代7人の家族は、月尾さんたちを迎えると、まずお茶をふるまってくれたといいます。来客をお茶でもてなすのは日本と同じですが、ここでの真水がどれほど貴重なものであるのかを、後日、水汲みに同行した月尾さんはあらためて実感することになります。それは断崖絶壁の細道を歩いて約5時間もかけて往復し、運んできたものだったのです。

滞在中にはヤギ1頭を解体して、近隣の人々も招き、盛大な宴会を開いてくれました。その宴会の最中、砂漠に向かって大声で何かを怒鳴り始めた人々。それは、はるか彼方に米粒ほどの人影を認めて「宴会のごちそうがあるから、立ち寄って食べていくように」と呼びかけていたのでした。相手は砂漠の移動中にたまたま通りがかっただけの人ですから、もちろん知人というわけではありません。

彼らはなぜ、見ず知らずの人のためにこれほどまでに尽くすのか。月尾さんがその親切の理由を尋ねると、こんな答えが返ってきたといいます。

「すべては“神から与えられたもの”だから、誰にも平等に分配するのが当然なのだ」と――。(参照=月尾嘉男著『幸福実感社会への転進』モラロジー研究所刊)
私たちは、この話から何を学ぶことができるでしょうか。

「与えられたもの」に対して不足を思わず、自然の恵みに心から感謝すること。そうしたものを独り占めせずに、他の人々と分かち合うこと。見返りは求めず、他のために尽くすこと……。そんな一人ひとりの「心のあり方」が、彼らの心豊かな暮らしの秘訣であるとしたら、物質的に豊かになった現代の日本でも、心がけ一つでこれを実践できるということではないでしょうか。

科学技術が進歩して、どれほど便利な世の中になったとしても、人は一人きりで生きていくことはできません。まず大切なことは、そうした「つながりの中で生きる自分」や「多くの人たちの力で支えられている自分」を自覚することです。そのとき、私たちは自分自身の日常に隠れている数々の「ありがたいこと」に気づいて、感謝の心がわき起こるのではないでしょうか。それとともに、「自分も他の人々の力になれるように」という積極的な気持ちを育んでいきたいものです。

物事を感謝の気持ちで受けとめる「心の受信力」と、他の人々への具体的な思いやりの行為につながる「心の発信力」――私たち一人ひとりがこうした「心の感度」を高めていくことは、心豊かな社会を築く原動力になります。また、そうした社会の中でこそ、自分自身の安心な暮らしが保証され、「喜びの多い人生」が実現するのではないでしょうか。

平成30年11月号

【No.590】受け継ぎたい「日本の心」


「ジャポネース・ガランチード」。これはブラジルの人たちが「日本人は信頼できる」という意味で用いる言葉です。ブラジルには明治41(1908)年以来、戦前・戦後を通じて多くの日本人が移住しており、今では日系人が約190万人ともいわれる海外で最大の日系社会が築かれています。

日本からの移住者は、当初はコーヒー農園の契約労働者として働きましたが、のちに自営農家として独立する人も現れました。原生林を切り拓いたり、石ころだらけの土地を開墾したりと、過酷な環境下で血のにじむような苦労を重ねて新しい作物の栽培に成功し、一大産地にまで発展させた例もあります。農業以外の分野でも、先人たちは勤勉、誠実、創意工夫、忍耐力、団結力といった特性を発揮しつつ、ブラジル社会に溶け込み、その発展に貢献してきました。

今から40年ほど前にブラジルへ渡り、現地で造園の仕事に携わってきたある日本人男性は、こんな体験を紹介しています。

――あるとき、軍の要職に就いていたというブラジル人男性から、自宅に日本庭園を造る仕事を依頼されました。以前から付き合いがあったわけではなく、その仕事を引き受けることで初めて知り合った相手です。庭が完成したとき、男性は「なぜ、あなたに仕事を頼んだか」ということを明かしました。

「子供のころ、私の家は貧しかった。そんな中、近所に住んでいた日本人のおばあさんが私をかわいがってくれて、よく家に遊びに行き、面倒を見てもらった。おばあさんに褒められるとうれしいから勉強に励んだし、世の中のために働くことが大事だと教えてもらったからこそ、ここまで頑張ってくることができた。自分の人生を支えてくれたおばあさんの思い出のために、日本庭園を造る人を探して、日本人のあなたを見つけ、庭造りを頼んだのだ」と――(参考=丸山康則著『ブラジルに流れる「日本人の心の大河」』モラロジー研究所刊)
「ジャポネース・ガランチード」という評価は、このブラジル人男性の思い出の中にあるおばあさんの姿のように、名もなき無数の先人たちの「周囲の人々へ向ける温かいまなざし」や「誠実な生き方」によって、長い時間をかけて形づくられてきたものなのでしょう。

現代の日本に生きる私たちの日常にも、海を渡った先人が発揮したのと同じ「日本の心」や「日本人の生き方」が存在しているのではないでしょうか。こうした美風を培ってきた先人に感謝しつつ、次の世代にもしっかりと受け継いでいきたいものです。自国の文化に愛着を持ち、これを大切に守り伝えていくことは、他の国々の文化を尊重する態度を養う第一歩でもあります。「互敬」の精神をもってお互いの「よいところ」に学び、高め合う中でこそ、人類社会の未来が開けていくのです。

平成30年10月号

【No.589】それって「めんどくさい」?


「めんどくさい(面倒くさい)」──日ごろ、こんな言葉を口にすることはないでしょうか。

家庭でも、学校でも、職場でも、「自分の好きなこと」や「自分がやりたいこと」以外を面倒と思う気持ちは、多かれ少なかれ、誰にでもあるものかもしれません。しかし、やらなければならないことを先延ばしにしたために、かえって面倒な事態を招くこともあります。

例えば、相手のある仕事の場合、“面倒だな”と思いながら対応していたら、その気持ちは表情や態度にもにじみ出てしまいます。そんな気持ちを感じ取ったら、相手も快くは思わないものです。それがトラブルのきっかけになることもあるでしょう。しかし、気持ちのよい対応で相手に喜んでもらうことができたら、自分自身も“やりがい”を感じられるのではないでしょうか。

心のこもらない仕事は、ただの「雑用」になってしまいます。反対に、ちょっとしたことでも心がこもっていれば、立派な「仕事」になるのです。

“面倒なことは、できるだけ避けたい” “手間は極力省きたい”“楽ができるなら、それに越したことはない”――そんな気持ちに流されていくと、努力すること、耐えること、踏ん張ることが難しくなり、いつしか向上心も失ってしまうのではないでしょうか。

人間らしく、よりよく生きる道は、誰の心の中にもある弱さや醜さを自覚して、これを克服しようとするところから始まります。やらなければいけないと分かっているのに“面倒だな”と思ってしまったとき。ついつい怠けてしまいそうになったとき。自分中心の考えにとらわれそうになったとき……。そこには、自分を成長させてくれるチャンスが隠れているのかもしれません。

平成30年9月号

【No.588】「次の人のこと」を考える

私たちは、この社会の中で多くの人々と関わり合い、支え合って生きています。そこで気持ちよく生活していくためには、こうした「つながり」を自覚して、お互いに「思いやりの心」を発揮することが不可欠でしょう。

その相手とは、家族や親戚、友人・知人、職場の同僚や近所に住む人たちのように、日常的に接する人ばかりとは限りません。現代の生活に不可欠な電気・水道・交通・通信などのサービスも、その技術や供給を支える人があってこそ享受できるように、私たちの暮らしを支える「つながり」は、思いのほか広い範囲にわたっています。さらに、それらは今を生きる人々の力だけでなく、過去を生きた無数の先人たち――例えば技術の開発に関わった人々の努力の積み重ねの上に成り立っているという点も、忘れてはならないことです。

私たちは決して一人で生きているのではなく、この暮らしも一朝一夕にでき上がったものではありません。こうしたことを考えるとき、自分自身も空間的・時間的な広がりを持つ「つながり」の一端にいる者として、さまざまな人に配慮した生活を送らなければならないことに気づくのではないでしょうか。

今、私たちが暮らすこの社会は、先人たちが「自分の時代よりもよい世の中を実現して、次の世代に伝えよう」という思いを抱いて努力を重ねた結果、発展してきたものです。そうした先人の恩恵を思い、私たちも次の世代に「よりよい世の中」を伝えることができるような生き方を志したいものです。

「次の人たち」の心豊かな暮らしのために、自然環境や資源、社会、文化、生き方なども、少しでもよい状態にして受け継いでいく。そのために今、自分にできる取り組みを考えていくことは、私たち自身の心豊かな暮らしにもつながっていくのではないでしょうか。

平成30年8月号

【No.587】「生きる力」を育む


「こんなつもりじゃなかったのに……」
「これから何を目標にすればいいのか……」
人生の岐路において、こんな思いが胸をよぎったことはないでしょうか。

例えば進学や就職などに際して、希望していた進路に進むことができなかったとき。不本意ながらも別の道を歩むことになったとして、どのように自分の気持ちと折り合いをつけていくのか。また、もともと希望していた進路であっても、「入ってみたらイメージと違った」等の理由から、急に気力をなくしてしまう場合もあるでしょう。

長年、大学での道徳教育に携わってきた北川治男さん(麗澤大学名誉教授、公益財団法人モラロジー研究所副理事長)は、自分の人生に意味や目標を見いだせないまま「自分探しの旅」を続ける若者の多さを感じてきたといいます。その問題意識から、北川さんは「アイデンティティ(自分の存在意義)の確立」というテーマを大学の授業で繰り返し取り上げてきました。それは自分自身の帰属集団との関わり方や、自分の価値観について考えを深めていく中で、明確になってくるといいます。

ここでいう「帰属集団」には、家族や学校、職場、地域社会といった身近なものから民族や国家まで、さまざまなものがあります。それらはふだん、あまり意識していなかったとしても、私たちの生活を根底から支えているものです。

しかし私たちは、ともすると「個人の自由」を尊重するあまり、「集団の一員としての意識」を薄れさせてはいないでしょうか。北川さんは、そのことが「アイデンティティの確立」を困難にする要因の一つではないかと指摘します。

例えば、最も身近な帰属集団である「家族の一員としての自分」について考えてみると、私たちは決して自分一人の力で生きているのではなく、親から子へ、子から孫へと伝わる大きな「いのちのつながり」の中にあることが分かります。また、現在の私たちの生活が、職場や学校、地域社会をはじめとした世の中の多くの人たちのはたらきによって支えられていることも、忘れてはならないでしょう。

自分が他の人々から支えられているように、そして親祖先が今日まで「いのち」を育んできてくれたように、私たちもまた誰かを支え、育てるという「いのち」のはたらきを、次の世代へつないでいくという使命を帯びた存在です。この「社会を支える一員」「過去と未来をつなぐ存在」としての自分自身の立場に気づいたとき、人はそこに「生きる意味」や「人生の目標」を見いだして、力強い一歩を踏み出すことができるのではないでしょうか。

平成30年7月号

【No.586】「求める心」を見つめる

「あの人は、どうして~してくれないのだろう」
「こうするのが『当たり前』だと思うのに……」
家庭や学校、職場など、日常生活の場で身近な人たちと関わる中で、こんなふうに思ったことはないでしょうか。

私たちは、物事がうまく運ばなくなったとき、その原因を他の人に求める心がはたらきやすいものです。しかし、私たちの生活は大勢の人々と関わり合い、支え合うことで成り立っているのですから、「周囲の環境がよくなりさえすれば、自分は何もしなくても幸せになれる」ということはないでしょう。

お互いが安心して日々の生活を営むためには、周囲の人々に対する「思いやりの心」が不可欠です。

私たちは、他の人の利己的な言動には敏感ですが、自分自身のことには案外無頓着なところがあります。よくよく考えてみると、自分も知らず知らずのうちに、他の人に対して迷惑や不快感、不信感を与えていることがあるかもしれません。まずは過ちを犯しやすいという「人間の弱さ」に思いを致し、自分にもそういうところがあるという謙虚な気持ちを持つ必要があります。

また、「思いやりの心」を持つためには、自分の中にある「求める心」を少し抑えて、相手の思いを受けとめようとする努力が不可欠でしょう。相手は何を考えているのか、どんな気持ちなのかを、謙虚な気持ちで聞くことが、その第一歩といえます。

「春風をもって人に接し、秋霜をもってみずからつつしむ」。これは江戸時代の儒学者・佐藤一斎(1772~1859)の言葉です。他の人に対するときは春風のような温かさをもって接し、自分自身に対しては、秋の霜のような厳しさをもって律する。それはよりよい人間関係を築くとともに、自分自身を人間的に成長させていくうえでの、大切な教えではないでしょうか。

どのような気持ちで人に接し、どのような心で人とつながっていくか。そうした自分自身の考え方や行動が、人間関係をよくも悪くもします。そして温かい関係を築くことができたなら、自分にとっても周囲の人々にとっても安心と喜びのある生活が生まれ、よりよい社会をつくる原動力となっていくことでしょう。

平成30年6月号

【No.585】「正しい意見」は一つだけ?

学校や職場、地域社会などで、大勢の人たちと協力し合って物事を進めるとき、意見が衝突した経験はないでしょうか。

私たちの物の見方や考え方は、人によって異なるものです。自分の意見を持つことは大切ですが、「自分は正しい」という思いばかりを募らせると、異なる意見を持つ人に対して必要以上に防衛的になったり、逆に攻撃的になったりするものです。そうなると、お互いの間に不信や不満を生じて、物事はうまく運びません。お互い十分に話し合ったうえで、それでも意見の一致を見ないときは、ひと呼吸置いて、視点を少しだけ変えてみましょう。

相手の立場に立って物事をとらえ直すと、相手の意図や気持ちがよく理解できることがあります。また、第三者の立場に立って、公平な視点から自分と相手の意見を見つめてみることも大切です。すると、より高い視点から、広い視野をもって解決の糸口を見つけることができるのではないでしょうか。

何より忘れてはならないのは、相手を尊重し、お互いを補い合おうとする心です。「自分の意見こそが正しい」と思い込み、それを押し通そうとする態度で臨めば、善意に基づく意見であっても相手には押しつけがましく受け取られ、人間関係にひびが入ってしまうことにもなりかねません。しかし「補い合う」という気持ちになれば、「自分も相手から教わったり、助けてもらったりする面がある」ということですから、相手の意見にも謙虚に耳を傾けることができるのではないでしょうか。すると信頼と協調の関係が生まれ、自分と相手だけでなく、周囲にも安心が広がっていくことでしょう。

これは人間関係を円滑にし、物事を建設的に運ぶためだけではありません。自分自身の物の見方や考え方を広げ、人間的に成長していくためにも大切なことなのです。

平成30年5月号

【No.584】勉強するのはなんのため?

「勉強するのはなんのため?」「学校で今教わっていることは、将来どんなふうに役立つのだろう?」──それは学校へ通う年ごろに、多くの人が一度は抱く疑問ではないでしょうか。とりわけ苦手意識がある教科の勉強などに対しては、納得できる理由が欲しくなるものです。

しかし、勉強は「学校へ通っている間にだけ行うもの」とは限りません。卒業して社会人になってからも、仕事をするうえで必要となる知識を身につけるための勉強や、自分自身の興味・関心に応じて自主的に取り組む勉強など、さまざまな形で「学び」は続いていきます。中には「受験勉強に全力を尽くしたことで、問題と粘り強く向き合って乗り越えていくための力や、目標に向かって努力を続ける姿勢が身についた」と感じている人もあるでしょう。

私たちは生涯を通じて主体的に学び、成長し続けることで、よりよい人生を築いていくための基本姿勢を、学校へ通う間に身につけているのかもしれません。その意味で「人はなぜ勉強するのか」ということは、大人にも子供にも共通する大切な課題であるといえます。

私たちが自分の人生に望むものは、安心と喜び、そして生きがいに満ちた「幸せな人生」ではないでしょうか。それは、生涯をかけて身につけた力を他人や社会のために役立て、周囲に喜びを広げていけるようになったときに実現するのかもしれません。

もちろん私たちは、よりよい生き方をしたいと願っていたとしても、必ずしも理想どおりにはいかない弱い面を持っていますし、時として挫折を経験することもあります。しかし、不完全さを持つ人間だからこそ、事あるごとに自分自身を省みて、自分に対しても他人や社会に対しても誠実な生き方を志していきたいものです。

平成30年4月号

【No.583】「譲る」に益あり

電車やバスの車内で、他人に座席を譲ること。狭い道を通り抜けるときに「お先にどうぞ」と譲ること――。私たちの日常を振り返ってみると、こんなふうに「譲るモノ」や「譲る相手」が明確な事態ばかりでなく、もっといろいろな場面に「譲ったり、譲られたり」というやり取りがあることに気づくかもしれません。

「譲る」とは「自分は退いて、他人に有利になるように取りはからうこと」と説明できますが、多くの人たちの複雑な関わり合いによって成り立つ社会では、それは必ずしも「他人を優先させて、自分は損をすること」とは言いきれません。また「自分だけは得をするように」と思って行動したところで、必ずしもうまくいくものでもないでしょう。一歩引いて譲ったことが、めぐりめぐって自分自身にも利益を与えてくれる――そんな事態もあり得るのではないでしょうか。

例えば、狭い通路で大勢の人が「われ先に」と殺到すれば、大混雑が発生し、時にはトラブルが起こることもあるでしょう。そうした事態を回避して、自分にとっても他人にとってもよい結果をもたらすのが「譲る」という心がけなのかもしれません。つまり、先を急ぐ気持ちを少し抑えて「お先にどうぞ」と譲り合ったほうが、「われ先に」よりも安全に、そしてお互いに気持ちよく通行できるという面もあるのです。

一人ひとりがこうした心がけを持つことから始まる「感謝」と「思いやり」の連鎖によって、自分も他人も気持ちよく暮らすことができる社会が築かれていくのではないでしょうか。

平成30年3月号

【No.582】人を育てる心

相手のためを思ってかけた言葉。ところが、その思いが相手にうまく伝わらなかったのか、反発を受けてしまった――そんな経験はないでしょうか。

特に「助言」は難しいものです。誰しも自分のしたことを否定されたり、行動を制限されたりするのは、決して気持ちのよいことではありません。自分が逆の立場に立ったときのことを考えると、「~しなさい」「~してはいけない」という強制や禁止を受けて、やる気を削がれた覚えがある方も多いでしょう。

間違いのない正論であっても、それを押し付ければ角が立ちます。すると、相手は「その主張の正しさ」を頭で理解したとしても、心から納得して受け入れることは難しくなります。助言の裏にある“相手によくなってもらいたい”という思いをよりよく生かすには、どうしたらよいのでしょうか。

“自分は正しいことを言っている”という思いは、相手の気持ちや周囲の状況を見えにくくします。親が子に、上司が部下に、先輩が後輩に接するときのように「相手を教え導く」という立場に立ったなら、ことさら冷静になり、相手に対する深い「思いやりの心」を実際の言動に表すように心がけたいものです。

勉強でも仕事でも“やらされている”“しなければならない”と思うと疲れます。しかし“よし、やってみよう”という気持ちになると、どうでしょう。大切なことは強制ではなく、相手の心に寄り添って「やる気」を引き出すようにはたらきかけることではないでしょうか。

相手の持ち味や豊かな可能性を認め、その成長と幸せを心から祈る――そうした心づかいに基づく助言は、相手の心に落ち、お互いの安心と喜びを生むことでしょう。

平成30年2月号

【No.581】「ツイている人」の考え方

もしも朝から晩まで、すべてのことが自分の思うように運んだとしたら、きっとこう思うでしょう――「今日はツイてるぞ」。

実際は、そんな日ばかりではありません。毎日の生活の中では、面倒な仕事を引き受けざるをえないこともあれば、思いがけない不運に見舞われることもあるでしょう。そうしたときは「ツイてないな」「面倒だな」「損ばかりだな」と思えば思うほどに、心は重く、後ろ向きになっていくものです。こんな感情にとらわれていると、いつしか視野は狭くなり、仕事の喜びや楽しみすらも見失ってしまうかもしれません。

「ツイてないな」と思うような出来事に直面したときは、「自分を見つめ直すチャンス」ととらえてみてはいかがでしょうか。例えば「損な役回り」と思うようなことでも、一歩を踏み出してみると、「ちょっと楽しみなこと」や「やりがいのあること」に変わってくることもあるはずです。自分を取りまく状況は変わらなかったとしても、「自分自身の受けとめ方」によって、何かが変わることもあるのです。

人は誰しも、たくさんの人との関わりの中で生きています。「自分のことだけ」から卒業して、広く大きな視点から物事を見つめ直していく――そうした心の習慣が「ツイている」と思える毎日をつくっていくのかもしれません。

平成30年1月号

【No.580】「おかげさま」の心

私たちは生きている限り、さまざまな人の支えや助けを受けるものです。

例えば、日常生活を営むうえでは、電気・ガス・水道などを利用しないわけにはいきません。そうしたライフラインの背後には、仕事という形でサービスを支えている大勢の人たちの力があります。ところがその労力に対して、私たちはふだん、取り立てて「おかげさま」といった意識は持たないものです。

そこには「サービスを利用する側はお金を支払っているし、提供する側はそれで報酬を得ているのだから当然」という見方もあります。しかし、この社会を構成する一員として大切なことは、まず「持ちつ持たれつの関係の中にいる」と自覚することではないでしょうか。

それは「迷惑をかけたり、かけられたりすることもある関係」ともいうことができます。自分では気がつかないうちに、他人に迷惑をかけていることもあるはずです。その自覚があってこそ、私たちの心に「おかげさま」「お互いさま」という気持ちが生まれるのです。

「おかげさま」とは、自分を支えてくれているすべてのものへの感謝を表す言葉です。また、私たちが「お互いさま」という言葉を使うとき、そこには「自分も皆さんのお世話になっていますから」「自分も誰かしらに迷惑をかけることはありますから」といった謙虚な気持ちが込められています。

どのような気持ちで人と接し、どのような心で人や社会とつながっていくか。そうした一人ひとりの考え方や行動が、人間関係をよくも悪くもします。周囲への感謝を忘れない謙虚な心の持ち主のもとでは、いさかいは起こらず、温かく親しみやすい空気が醸し出されることでしょう。そして良好な人間関係が築かれたなら、自分にとっても周囲の人々にとっても安心と喜びのある生活が実現するはずです。その意味で、「おかげさま」「お互いさま」といった思いを忘れず、「人や社会とよりよくつながる力」を育んでいくことは、「私たち自身にとって大切なこと」といえるのではないでしょうか。

平成29年12月号

【No.579】「働く喜び」を味わう

私たちは人生の中で、働くことに多くの時間を費やしています。だからこそ、この働くということを喜びととらえるか、それとも苦しみととらえるかによって、人生の味わいはまったく変わることでしょう。仕事をしていても充実感が味わえないとき、特に「自分の仕事が正当に評価されていない」と感じるときなどは、「働く喜び」とはどのようにして生まれるのかを、あらためて考えてみたいものです。

一般的に、仕事には次の三つの要素が不可欠であるといわれます。

①自分の能力を発揮できる(自己の成長を実感できる)
②他人や社会の役に立つことができる(社会に貢献している)
③報酬を得ることができる(生活のための十分な収入がある)
これらの要素が重なり合ったとき、喜びが生まれます。そこでは物質的な満足だけでなく、「一生懸命仕事に取り組んだ達成感」などの精神的な満足も大きな部分を占めることは、多くの人が実感しているのではないでしょうか。職場とは、そこで働く人にとっての生活の基盤であり、生きがいを得る場でもあるのです。

また、仕事の目標に向かってひたむきに努力する中で、「自分の新しい可能性」を見いだすこともあるでしょう。そうして自己実現していくこともまた、仕事から得られる大きな喜びとなります。

もう一つ、忘れてはならないことがあります。私たちは意識しているか否かにかかわらず、日々、いろいろな人たちのお世話になっているものです。職場でも「一人前に仕事をしている」と言っても、上司や先輩からアドバイスをもらったり、同僚や後輩に助けられたり、取引先に教わったりすることもあるでしょう。

つまり、仕事とは一人の力だけでできるものではなく、多くの人たちの協力があってこそできるものなのです。さらには「取引先やお客様があっての仕事」ということもできます。

働くということは、「周囲の人々を喜ばせ、人々を支え、社会の役に立つこと」です。見方を変えれば、私たち自身は他の人々の働きによって支えられているのです。このように考えると、私たちは「働くことによって、互いに支え合っている」ともいえるでしょう。

そうした中での「働く喜び」――それは感謝の心があってこそ、味わうことができるものなのではないでしょうか。

平成29年11月号

【No.578】共に生きる喜び

ボランティアに関心はあるものの、なかなか手が出ない――そんなふうに思っている人は、意外と多いようです。もちろん、そこには時間的な制約や経済的な理由もありますが、「活動への参加方法が分からない」「きっかけがない」「何をすればよいかが分からない」といった思いから、実践に踏み出すことができない場合もあるでしょう。

意欲があっても実践できない人の多くは、「ボランティア」ということを、つい大げさに考えてしまっているのかもしれません。しかしボランティアとは、何も特別なことではなく、ふだんの暮らしの中で当たり前に行われている「人と人との支え合い」にほかなりません。そう考えると、人それぞれに「他人や社会のためにできること」を見つけることができるのではないでしょうか。

私たちは社会の中で、大勢の人たちと支え合って生きています。それはお互いの違いを認め合い、理解し合うことから得られる「共に生きる喜び」を味わうことでもあるのでしょう。

ボランティアの場合も、単に「誰かに何かをしてあげること」というわけではありません。活動の中で関わった人たちから学ぶことがあったり、「自分自身もこうして支えられている」という点に気づいたり、自分の中に眠っていた能力や新たな可能性を見いだしたりと、最初の一歩を踏み出せば、自分自身も必ず得るものがあるでしょう。さらに、相手の喜びに触れる経験を通じて「自分も役に立つことができた」という実感が得られたなら、それは何よりの喜びとなるはずです。

どんな小さなことでもいいのです。みずからの可能性を信じ、「他人や社会の役に立つ」という気持ちを大切にして、まずはできることから始めてみてはいかがでしょうか。その一歩が、この社会と自分自身の人生を潤いのあるものにしていくのです。

平成29年10月号

【No.577】「幸せ」を感じる心

科学技術が進歩し、日常生活を快適に送るための「モノ」で満たされた現代の日本社会。しかし今、「幸せ」を実感できないという人も少なくありません。

「世界各国の中で、どこの国の国民が一番幸せか」ということを示す、興味深い調査結果があります。

英国のシンクタンク「ニュー・エコノミクス財団」による「地球幸福度指数」の2016年版では、中米のコスタリカが首位となっています。面積は九州と四国を合わせた程度、人口は約481万人と、経済面も含め、決して大きな国ではありません。また、ここで上位となった国々は、メキシコ、コロンビアのほか、バヌアツ、ベトナム、パナマ、ニカラグア、バングラデシュ等、いずれも経済大国といわれる国々ではないようです。

そうした国々が選ばれた理由はいくつかあるでしょうが、一つには、その国に住む人々の「生活の満足度」が高い点が挙げられます。

これは決して「物質的な豊かさ」と比例するものではありません。モノや情報があふれる中で暮らす私たちは、新しいスマートフォンを手にしても、しばらくたつと「もっと性能のよいものを」と思うことはないでしょうか。また、手軽に利用できるようになったインターネットで他人の生活ぶりを知ったばかりに、「自分ももっとよい暮らしがしたい」という気持ちを抱くことはないでしょうか。そこには「満足」ではなく「不足」を思う心がはたらいています。

あれがない、これもないと「不足」を数えていけばきりがなく、そうするほどに心はすさんでいきます。私たちの幸せとは、物質的な豊かさよりも「今の生活に満足して心穏やかに日々の暮らしを送ること」、つまり「足るを知る心」によるといえるのではないでしょうか。

客観的に見ると恵まれた境遇にありながら、どこか満たされない思いや不平・不満を抱いて毎日を過ごしている人もいます。一方で、経済的に豊かではなかったり、病気を抱えていたりしても、生き生きと毎日を過ごす人もいます。その違いを生じるものは、日々の生活の中に隠れている「感謝の種」に気づくことができるかどうか。そして「感謝」が増えるほど、「幸せ」を感じる機会は多くなるはずです。特に周囲の人とつながることに喜びを感じ、人の幸せのために尽くす喜びを知ったなら、どんなに喜びの多い人生になることでしょう。

私たちの心は、自分自身に与えられたものに感謝し、また人を思いやり、人に尽くそうとするときにこそ、生き生きとはたらくものです。その心のはたらきが、私たちの心の中の「幸せスイッチ」をオンする力にもなるのです。

平成29年9月号

【No.576】気分よく毎日を過ごす

この春、中学校に入学した春香さん(12歳)。友だちと仲よくなるにつれて緊張は解けてきたものの、勉強は小学校よりも大変ですし、おもしろそうだと思って入部したテニス部も、初めは基礎体力づくりとボール拾いばかりで、学校生活は楽しいことばかりではありません。

一方、姉の由美さんは、この春から高校生になりました。明るく生き生きとした表情で毎日を過ごす由美さんを見て、春香さんは思います。

“お姉ちゃんは、どうしてあんなに元気なんだろう? 高校は、もっと大変なはずなのに……”
「なんとなく気分がいい」「なんだかおもしろくない気分」――日々、そんなふうに感じることはないでしょうか。

気分とは、「飛び上がるほどうれしい」「泣きたくなるほど悲しい」というような強い感情ではないだけに、些細なことに左右されやすいものです。イライラした気分のとき、その発端を考えてみると、意外につまらないことがきっかけになっていることも多いのではないでしょうか。

また、気分の状態は、みずからの言動に大きく影響します。考えてみると、私たちは気分のよいときほど、物事のよい面を見ることができますし、他者に対しては好意的になり、仕事に対しても意欲的になるものです。

できることなら「気分のよい人」と共に、みずからも「気分よく」毎日を過ごしたいと思うもの。そのためにも、日々の「自分の気分」に意識を向け、「自分で自分の気分をよくする工夫」をしていきたいものです。いつでも気分よく、柔和な表情で、温かく他者に接することができる人の周囲には、おのずと「よい気分」と「よい人間関係」が広がっていくことでしょう。

皆さんの身近に「いつも明るくて、誰に対しても親切な人」がいたら、その人は単なる幸運の持ち主というわけではなく、「気分よく毎日を過ごす達人」なのかもしれません。この「気分よく毎日を過ごす」という心がけは、自分にも他人にも、ますます喜びに満ちた人生をもたらしてくれるのではないでしょうか。

平成29年8月号

【No.575】「すべきこと」の向こう側

休日に企画される自治会の清掃活動。「強制ではない」と言われたものの、ご近所の手前、毎回不参加を通すこともできず、Aさん(33歳)も仕方なく参加することに。“早く終わりの時間にならないかな”と思いながら、おざなりな掃除をしていると、生き生きと掃除に取り組む参加者の姿が目に入って……。

私たちは日常生活の中で、それぞれの立場における「すべきこと」として、さまざまな仕事や役割等を引き受けています。それらを単なる義務感で、重荷に感じながら取り組んでいると、日々の務めはつらさや苦しみを生むものにしかなりません。

しかし、その「すべきこと」を、ほんの少し別の視点から見つめてみると、どうでしょうか。

Aさんがいやいやながら、仕方なく参加した清掃活動も、地域の住民の一人、あるいは「子供を持つ親の一人」等として、「自分の家族や近隣の人々の憩いの場を整え、安全を守る」という意味を見いだす人もいるでしょう。つまり、取り組みの内容は変わらなくても、それを行う自分自身の動機や目的をとらえ直すことで、やりがいを与えてくれるものになり得るのです。また、そうした取り組みを通して「よき仲間との出会い」といった、新たな喜びが得られることもあるでしょう。

「すべきこと」という思いを越えた、向こう側の世界に踏み出すこと――日々の営みに前向きな意味を見いだし、積極的にみずからの務めを果たそうとする心がけは、自分自身の人間的成長にもつながっていくのです。

平成29年7月号

【No.574】「おせっかい」のすすめ

「困っている人」や「手助けが必要そうな人」を見かけたとき、力になりたいという気持ちが芽生えたとしても、なかなか行動に移せないことがあるのは、なぜでしょうか。

例えば「電車の中で年配者に席を譲る」という行為について考えてみると、相手の姿を目にした後、実際の行動に移すかどうかをめぐって、いろいろと頭を悩ますことがあります。それは、単に「自分も疲れているから、できればこのまま座っていたい」という場合もあるでしょうが、「自分が声をかけることで、かえって相手に不愉快な思いをさせるかもしれない」という不安から、声をかけることをためらう場合もあるのではないでしょうか。こうした場合は「相手の気持ちを推し量ったばかりに、実際の行動に出ることが難しくなってしまった」といえます。

しかし、本当に「相手のため」を思って席を譲ろうという気持ちが起こったのであれば、「何もしない」という選択をするのは惜しいことです。思い切って声をかけてみると、事前にあれこれと気を回したほどのことはなく、よい結果を生む場合も多いのではないでしょうか。

確かに、純粋な「思いやりの心」から行動を起こしたとしても、思うような結果を生まないことはあります。それは、どれだけ相手のことを思いやろうとしても「自分の視点から相手の気持ちを推し量ること」には限界があるからではないでしょうか。そういうときこそ「相手の気持ちや状況をきちんと確かめること」が必要になるのです。まず声をかけてみることは、その第一歩でしょう。

「相手のため」を思ったなら、まず行動に移してみること――それは「おせっかい」と呼ばれる行為かもしれません。もちろん「親切の押し売り」にならないように配慮する必要はありますが、「他人のことにはあまり干渉しない」という風潮が行き過ぎると、「無関心」による冷たさを助長することにもなりかねません。

少しの「おせっかい」によって相手の役に立つことができれば、そこには温かい心の交流が生まれ、人間関係を築いていくきっかけとなります。その意味で、小さな「おせっかい」は社会の潤滑油といえるのではないでしょうか。

平成29年6月号

【No.573】母に感謝する日

5月の第2日曜日を「母の日」とする習慣は、100年ほど前にアメリカで始まり、日本においては戦後に定着しました。国内では、5月5日の「こどもの日」についても、法律で「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」日と定められています。

こうした機会に親へプレゼントを贈ったり、食事や旅行に招待したりする人も多いことでしょう。しかし「親への感謝の気持ち」とは、そうした形でしか表せないものなのでしょうか。

​私たちは、誰もが親から「いのち」を与えられ、この世に生を受けました。その親にも「親」があり、そのまた親にも「親」があります。私たちの「いのち」は、先祖代々の「いのちのつながり」の中で、脈々と伝えられてきたものです。

しかし、人間が生きるということは、そうして与えられた「いのち」だけでは成り立ちません。生育の過程では、必ず「どうかこの子が元気に育ち、社会の中でしっかりと生きていくことができるように」と祈りつつ、養い育ててくれた人がいたはずです。生みの親にしても育ての親にしても、そうした温かい「親心」を受けた結果、私たちの今があるのです。

「身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受く、あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり」(『孝経』)というように、自分自身を大切にすることは、親孝行の第一歩です。何より忘れてはならないことは、「親に安心を与える」という心がけです。親の心を思い、報告や相談をこまめにすることも一つの方法といえますが、親がすでに亡くなっている場合などでも「親が安心するような生き方ができているかどうか」を日々、自分自身に問い、生き方を正していくことはできるのではないでしょうか。

私たちは、毎日を「親を思う日」として、感謝の気持ちを忘れずに過ごしたいものです。それは、自分自身がしっかりと人生を歩むうえでも大切なことであるのです。

平成29年5月号

【No.572】主体的に受けとめる

私たちの生活の中では、すべて自分の思うように事が運ぶとは限りません。忙しいときに限ってトラブルが発生したり、大変な仕事が降りかかってきたり、時には不運と思える出来事が次から次へとやってきて、“どうして自分だけがこんな思いをしなければならないのか”と感じることもあるでしょう。

しかし「自分自身のイライラした気持ち」こそが「次のトラブル」の原因となっていた――そんな可能性もあるのではないでしょうか。

人生を送るうえでは、必ずいろいろな問題に直面するものです。そこには、無意識のうちに招いてしまった問題や、自分には直接責任がないと思われる問題もあるでしょう。しかし、いずれにしても、私たちは時間をさかのぼって人生をやり直すことはできません。また、他の人に自分の境遇を代わってもらうこともできません。

「問題に直面した」という事実が変えられないのであれば、文句や愚痴を言うのではなく、むしろその問題を主体的に受けとめ、前向きな気持ちで事態の改善に取り組みたいものです。思いがけない困難や不運をも「自分の人生を好転させるきっかけ」として、感謝の心で受けとめる人は、いかなる逆境にあっても力強く生き抜くことができるでしょう。

そのような歩みを続けていったなら、時がたち、冷静に振り返った際に「あの出来事があったからこそ、今の自分がある」と思えるときが来るのではないでしょうか。

平成29年4月号

【No.571】「注意」に込める思いやり

ある夜、自宅近くの路地を歩いているときに、背後からやって来た無灯火の自転車と接触しそうになったAさん。

「危ないじゃないか! ライトをつけて走りなさい!」
慌てて身を引き、反射的に大声で注意をしましたが、相手は何も言わずに走り去っていきました。不愉快な気分のまま帰宅したAさんは、先ほどの出来事について家族に話します。すると……。

「近ごろ、気に入らないことがあると大声で怒鳴りつけてくるおじさんがいるけど、そういうの、すごく不愉快だよな」
「どんなに正しい忠告でも、あまりきつい言い方だと、言われた人だけじゃなくて周囲もいやな気分になるわよね」
「優しく声をかけられたら素直に従えるけど、いきなり怒鳴られるのはちょっと……」
社会をよりよくしていくために、ここで暮らす一人ひとりがルールやマナーについて注意を喚起し合うことは、「よいこと」に違いありません。しかし、時折ニュースになるように、禁煙場所での喫煙や電車の中での携帯電話の使用などを注意したことが原因で、互いに感情的になって言い争いに発展し、時には思わぬ事件を招くことすらあります。

他人の過失を目にした際、非難・攻撃のようにして性急にそれを正そうとすれば、相手を傷つけ、かえって反省の芽を摘んでしまうことにもなりかねません。また、それが公共の場で行われた場合には、周囲にさらなる混乱を招くことにもなるでしょう。注意をする側も、時機や場所、場合などに十分配慮したうえで、相手の立場を思いやった声かけのあり方を考えていく必要があります。

何より、他人の欠点や過ちを正そうとするときの私たちの心には、往々にして高慢な心が潜んでいるものです。注意の声かけをする際は、正義感で相手を打とうとする心ではなく、謙虚さと「相手の幸せを祈る優しい心」をもって、これを行うことが大切なのではないでしょうか。

平成29年3月号

【No.570】人の「思い」を受けとめる

奥さんが子供を叱る様子を目にして、とっさに「もう少し優しく言ってやったら?」と口を挟んだTさん。すると、奥さんからはこんな反論が。

「あなたはいつも正論ばっかりね……。確かにあなたの言うことも正しいと思います。でも、あなたは私が子供を叱らなければならなかった事情も聞かないで、表面に出ている私の態度だけを見て批判している」
「だって、あまりにも一方的に見えたから……」と言うTさんに、奥さんは強い口調でこう言います。

「そう言うあなたのほうこそ、一方的じゃないの」
私たちは、人と人とのつながりの中で、他の人に支えられていると同時に、他の人を支えている存在でもあります。

そうした中で「よりよい人間関係を築くために必要な心づかい」とは、何より相手に対する「思いやりの心」です。そして「思いやりの心」を持つためには、その人の思いを受けとめ、それを正しく理解することが不可欠でしょう。

たとえ正しい忠告をする場合でも、相手の立場を考えない一方的な対応では、ただうるさく感じられるだけで、大切なことが伝わらないばかりか、互いの関係にひびが入ってしまうことにもなりかねません。「相手は何を考えているのか」「どんな気持ちか」「何を求めているのか」を、まず自分の心を無にして聴き、その人の考え方や感じ方に思いを寄せることが、「思いやり」の第一歩となります。

どのような気持ちで人に接し、どのような心で人とつながっていくか――そうした私たちの考え方や行動が、人間関係をよくも悪くもしていきます。人間関係がよくなれば、自分自身にとっても周りの人々にとっても安心と喜びのある生活が生まれてくることでしょう。

平成29年2月号

【No.569】「意味」を見いだす

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ある土曜日の朝、町の診療所を訪れたYさん。ところが、パソコンのトラブルでカルテ作成などの事務手続きが一切できない状態になった診療所では、職員総出で対応に追われていました。診察がいつ始まるとも分からない状況に、Yさんはイライラを募らせます。そのとき、患者の1人が「おい、いつまで待たせるんだ!」と怒鳴り始めて……。

私たちは、自分の意に染まない事態に直面したり、思いがけないトラブルに見舞われたりすると、憂鬱な気分になるものです。

そうしたときは“こんなことになったのは他人や環境のせいだ”と考えるほどに、不平や不満、イライラが募っていきます。その気持ちを相手にぶつければ、不和や争いの原因になるでしょう。一方、自分の心の中に押し込めたなら、徐々にストレスがたまって、自分自身を苦しめることになるでしょう。

ひとたび起こってしまった事態は、元に戻せるものではありません。しかし、いつ、いかなるときも、自分の心一つで変えられることがあります。それは「自分はその出来事をどのように受けとめるのか」という点です。

自分の目の前で起こった出来事は、その原因が自分自身にあるかどうかを問わず、「この出来事は、自分にとってどんな意味を持っているのか」「この経験を、今後にどう生かすことができるのか」について、建設的に考えてみたいものです。どのような出来事でも、受けとめ方次第で、自分にとってプラスにすることができるのです。

私たちの人生は、新しい出来事との出会いの連続です。大切なことは、その出来事を「どのような心で受けとめるか」です。日々の生活の中で心に何を思い、何に心を動かし、物事をどのように判断していくか。そうした心の姿勢こそが、喜びの多い人生を築く鍵となるのです。

平成29年1月号

 

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